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2019年8月13日火曜日

女のたたり ex-sistence de la femme

「女のたたり」という表題にしたが、これは前回示した「女というものの外立 ex-sistence de la femme」の言い換えである。

外立とは、解離のことでもあり、排除のことでもある。すくなくともわたくしは中井久夫に依拠してそう捉える。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


神話的に語られがちなラカンの「女というものは存在しない La femme n’existe pas」とは、事実上は、「女というものの解離」、つまり「女というものの外立」、「女というものの排除」である。前回の「享楽の排除、享楽の固着、女性性の拒否」では、敢えて「女というものは存在しない」という表現を使わないで記したが、それを暗示したつもりである。


以下の用語群は「女というものの外立 ex-sistence de la femme」以外は、すべてラカンおよびラカン派の表現、フロイト自身の表現である。わたくしはこれらを相同的な表現ーーすくなくとも限りなく近似した意味をもっているーー今のところ捉えているが、これはあくまで当面の仮説である。




 女というものは存在しない
 La femme n’existe pas
 女というものの排除
 forclusion de la femme
 享楽の排除
 forclusion de la jouissance
 享楽の固着
 fixation de la jouissance
 享楽の外立
 ex-sistence de la jouissance
 原抑圧の外立
 ex-sistence de l'Urverdrängt
 女というものの外立
 ex-sistence de la femme
 女性性の拒否
 Ablehnung der Weiblichkeit
 リビドーの固着
 Fixierungen der Libido
 女への固着
 Fixierung an das Weib 
 母への原固着
 »Urfixierung«an die Mutter 
 トラウマへの固着
 Fixierung an das Trauma




「女というものの外立」という表現は、次の二文に基づく。

神の外立 l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)
問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)

……あれ、ちょっとpc の具合が悪いな、ちかちかして画面が勝手に動くよ。「女のたたり」のせいかもな。それともお盆になっても墓参りもせずにいる不肖息子に対する「原女のたたり」かな。今回はこれでオシマイ。ああ、女の外立はおそろしい!

・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)