いってたな「ほかの土地にゆきたい。別の海がいい。
いつかおれは行くんだ」と。
「あっちのほうがこっちよりよい。
ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。
おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?
眼にふれるあたりのものは皆わが人生の黒い廃墟。
ここで何年過したことか。
過した歳月は無駄だった。パアになった。
きみにゃ新しい土地はみつかるまい。
別の海はみあたるまい。
この市はずっとついてまわる
……
まわりまわってたどりついても
みればまたぞろこの市だ。
他の場所にゆく夢は捨てろ。
きみ用の船はない。道もだ。
この市の片隅できみの人生が廃墟になったからには
きみの人生は全世界で廃墟になったさ」
ーーカヴァフィス「市」より 中井久夫訳
《ここでしたことは初めから結局駄目と決っていた。みんなだ。/おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。こんな索漠とした心境でいつまでおれる?》
この箇所のギリシャ語原詩は次の通り。
下線部の、中井訳では「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ。」の箇所は、
・And my heart is—like a corse--buried (代表的な英訳とされる KeeleySherrard)
・Mon cceur est enseveli comme un mort (ユルスナール仏訳)
であり、もし直訳すれば「私の心はーー死体のようにーー埋葬されている。」となる。
この箇所を、各国十一もの翻訳を引用して比較されている方がいる。
この部分の眼目は何といっても、(……)「死体のように」という煮え切らない明喩を、「おれの心はムクロ。」と吐き捨てるような片仮名表記で、ピリオドを打ち、暗喩に転換したことに尽きる、(……)中井訳の、ここまで思い切った、しかも作者の心奥に肉薄し、それに対応する表現を再構成して提示するのは、翻訳というより、詩作それ自体と変わらないであろう。普通の文学研究者に、これはできないのではないだろうか。目に見えない心理を把握し、言語化する精神科医の力はあまりにも大きいことを思い知らされる。(中村幸一「おれの心はムクロ。」――中井久夫訳『カヴァフィス全詩集』における翻訳技法の研究)
………
■中井久夫「訳詩の生理学」より
私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。
私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。
その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。
人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。
それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。
いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。
この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。
翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。
また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
■中井久夫「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底
1
精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。
言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そういったものが雲のように語を取り囲む。
この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。
これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。
さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。
このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。
当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。
2
詩作者と、精神分裂病患者の、特に最初期との言語意識は、以上の点で共通すると私は考える。
私がかつて「詩とは言語の徴候的側面を主にした使用であり、散文とはその図式的側面を主にした使用である」と述べた(『現代ギリシャ詩選』みすず書房、一九八五年、序文)のは、この意味においてである。この場合、「徴候」の中に非図式的、非道具的なもの、たとえば「余韻」を含めていた。その後、私はこの辺りの事情を多少洗練させようとしたが、私の哲学的思考の射程がどうしても伸びないために徹底させられずに終わっている(「世界における索引と徴候」『ヘルメス』 26号、岩波書店、1990年、「世界における索引と徴候 ――再考」同27 号、1990年)。「索引」とは「余韻」を含んでいるが、それだけではない。
その基底には、意識の過剰覚醒が共通点としてある。同時に、それは古型の言語意識への回帰がある。どうして同時にそうなのであろうか。過剰覚醒は、通用言語の持つ覆いを取り除いて、その基盤を露出すると私は考える。
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」 heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。
3
実際、妄想は未曾有の事態に対する言語意識の発見論的使用がなければ成立しない。幼少年型の分裂病では、これを分裂病と呼べるとしてであるが、言語は水や砂のようにさらさらと流れて固まらない。しかし、妄想は単に言語の発見論的使用ではない。妄想が妄想として認識されるのは決してその内容ではなく、問題の陳腐な解決、特にその解決に権力欲がまつわりついた場合であり、さらに発語内容のみならず形式のほとんど一字一句に至るまでの反復によって「妄想」と認識される(初期分裂病の「妄想的」発語は妄想ではない)。妄想を、通常人が「奇想天外」と余裕を以て驚いてみせるのは、実はその意外性、未曾有性でなく、その陳腐さを高みから眺められるからである。もし陳腐でなければ(いやいささか陳腐であっても)、啓示として跪拝するのは日常見られることではないか(ここで分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう)。
むろん一方は病いであり、一方は病いではないといちおうは言うことができる。しかし、分裂病の場合でも、その最初期、病いといえるか否かの「未病」の時期に言語の徴候的側面への過敏が顕著であり、また一般には、この過敏はその時期の徴候一般に対する過敏の一部として出現する。逆に、詩人の場合も、何の危機もなくて徴候性への敏感さが現れるかどうか。
散文を書く時は、たとえ難渋するにしても、それは主題との格闘であって、言語そのものに対しては「大地の感覚」を維持している。散文においても言語は「発見」の道具でありうるが、言語を「発見論」的にしようしてはいない。「発見論」的使用とは、発見のために闇を探ることであり、それは決して何かを証明することはなく、常に「悪魔と深い海との間に落ちる」危うさがある。詩とは言語の「発見論的」使用であり、それゆえの徴候あるいは余韻、索引への敏感性があるということができると私は考える。詩を書き始める年齢は「妄想能力」の成立の年齢とほぼ一致する。
かりに、貴重な薄氷感を失えば、言語の発見論的使用は「妄想」に堕する危険がある。実際、妄想は全面的危機に際して一つの解釈を示して救い手として現れるものであり、患者が妄想にその内容にふさわしい恐怖を示さないかに見えることは、何よりもまず、それに先行する事態がはるかにおそるべきものであって、それに比すれば何ほどのことはないからである。実際、妄想の反復性と一義性とは、内容の恐怖性を補って余りある安定を与える。ここに妄想の抜けにくさがある。それは不要になった時に自然に消滅する他はないものである。しかし、安んじて共存できるものでもない。また問題は、新しい体験が入ってこなくなることであり、それゆえに妄想を持つ人の「心が痩せる」。詩と妄想とは最終的には相互排除的であるが、出発点においては、まったく別個のものではないと私は考える。むろん、発見論的使用と無縁な韻文はありうる。それは韻文であるが「詩」との相違は、数学の論文とパズルとの差に近くはないか。もっとも、詩作のある段階においてはパズル的側面、言語ゲーム的側面が前に出ることもある。それが詩を完成させる救いになることもある。
4
私がここでポール・ヴァレリーに触れるのは、ただ私が無謀にも彼の詩の若干を訳したことがあるというだけではない(『ヘルメス』 40号、同47 号)。むろん、翻訳は、出来ばえはどうであっても通常よりも徹底的な読みであり、その過程で気づいた襞もある。しかし、それよりも、詩作の生理学を自ら述べているのがなかんづく彼だからである。ここでは紙幅の関係もあり、主に「太公と若きパルク」によって述べよう。
彼は一八九二年に詩作を廃し、一九一二年に四十一歳にして友人の促しによって詩に回帰する。彼は、「自分ではわからない青春への回帰によって二十年を隔てて詩に感興を覚えるようになった」と述べている。外的原因も無視できないが、彼は「長周期の記憶あるいは共鳴があって、それがにわかに己の性癖、力、遠い過去の希望も返してくれるのではないか」と述べている。これについては人生の入口および出口近くに詩作のピークを持つ詩人が少なくないことを付言しておこう。さしあたりT・S・エリオットあるいはリルケが念頭にある。
最初には、ことばの響き、その「音楽」への敏感性を自覚し、さらにそれを味到しようと努力するようになる。「語を耳にすると私の中で自分でもわからない和音的相互依存関係や皮一枚下まできている律動の、まだ声にならない存在〔もの〕が揺らいだ」。この「うたう状態」の始まりは「演奏前のオーケストラの楽器の低い呟きのような甘美」であった。彼は自分の中に詩人を認め、それに馴染み、成り行きに任せる。ここで彼が「当時は難問に取り組むことにとうの昔からうんざりしていた」と述べているのは事実であろう。彼が書き続けてきた「カイエ」による探求は「地獄のような悪循環」になっていた。彼の中に再生した詩への傾斜は、救いとして、さらに青春の再生として感受されている。
これは、彼を「若きパルク」制作に誘い込む陥穽であった。しかし、彼は詩に回帰してもこの地獄から逃避できなかった。「新しい季節の初花の下には抽象的問題と謎とが群集していることをすぐに認めた。見たいと思うところには必ずあった。詩にも」。「粗書きの幸福の後、かいま見た将来の美、内面の声のこの神のような囁きの後、まだ指紋のついていない断片がすでに生れているというのに、そこから苦役にむかって、このざわめきを文節し、断片を繋ぎ合わせ、全知性に問いかけ ……そして待たねばならないのであった」。「最初の一句はミューズから与えられる。後は努力である」と彼は別のところで言っている。ある日、「すでにある部分の構築と推敲とに疲れて」絶望的嫌悪感に陥り、ある部分の断念を自分に言い聞かせて、雑踏の中を彷徨する。一九一三年十二月のことである。
神秘家は、召命の後、ある時期には aridity(不毛)に耐えなければならないと聞く。このことは詩人にもある。
彼はあるカフェに入り、散らばっている新聞に、あるドイツの大公が、愛人であった女優の演技と台詞を具体的に細部にわたって記してあるのに遭遇する。それは「まさにしかるべき瞬間に到来して、もっとも予想外の経路によって必要であった救いをもたらした」。これはサン・ピエトロ広場のオベリスクが建立中途で進退谷〔きわ〕まった時、厳禁されている沈黙を破った「綱を湿せ」の一声が綱の強度を増して破局を救ったのに例えられている。劇はシラーの「メアリ・スチュアート」の処刑寸前の一節を音の高さから沈黙まで記述したものであるが、どうして彼を救ったかは自分ではわからないという。
この時までに彼が現在刊行されている「若きパルク」の草稿のどの段階に達していたかは、それらの多く、特に初期のものに日付がない以上、確定できないが、この特権的な救いによって、「パレット」と「断片」にすっと筋が一本通ったのであろう。棋士が勝負を進める時、あらゆる可能性を読むうちはまだ駄目で、他の可能性がおのずと排除されてすっと一筋の道が見えるようになる必要があるというが、それに似た転換である。
パレットに絵の具を並べるようにさまざまの語や観念とその相関とが乱舞するのは、分裂病の言語危機においても見られるところである。分裂病が創造性にもっとも近づく一時期である。もし、そのまま推移して、パレットが自動的に増殖し、ついには認知が追いつけないほど加速され、また、語の「自由基」ともいうべき未成の観念の犇めきが意識されるようになれば、病いのほうに近づく。精神は集中に過ぎれば不毛になり(それゆえカイエの「地獄」、散乱にすぎれば解体の危機に近づく(「パレット」の時期)からである。あらゆる可能性をきわめようとしつつ、精神の統一を強化しようとする矛盾した自己激励は、時に創造的であるが、しばしば袋小路に自らを追い込む。
5
この瞬間によって「若きパルク」に坦々とした道が開けたわけではない。一九一四年夏には第一次大戦が始まる。早く「方法的制覇」「鴨緑江」によってこの危機を予言していた彼は、後の有名な論文「精神の危機」(一九一九年)に見るごとく、自己を西欧(彼の場合はほとんど英国とフランス)と同一化していた。「パルク」をおのれの個人的な最後の詩とするつもりの彼は、文明の破局によってこれが最後のフランス詩となる可能性に思い至っている。かれは徴兵を覚悟し、妻子を疎開させ、パリに残留して詩作を継続した。「若きパルク」は「軍神マルスの相のもとに書かれた」と彼はいう。「パルク」がどういう詩であるかはさんざん論じられてきた。「内容でなく形式が私の自叙伝である」と詩人自身は韜晦している。形式とは何であろうか。それが構成であれば、純粋予感というべきもので始まり、比較的唐突な肯定が喚起されては次第に否定的なものに転調変化しつつ、この反復によって次第に深く沈下してゆくという構成を持っている。周知のように最終的な形は、昇る太陽に向かって感謝しつつ乙女が立ち上がって終わるのであるが、一九一六年初めの第四稿では、この詩句の後、再び下降が始まり、入水に終わろうとして中断する。彼は一八九六年秋ロンドンで自殺未遂をしている。引き返そうとしてはさらに深みに下降する形は知的な自殺者の行動にしばしば見られる。
第一部といわれる入水への暗示に終わる三二四行の後、下降の余波はありつつも再生と睡眠へ覚醒へと移行する現在の形は一九一六年秋の第五項からであり、一九一七年初頭にはほぼ完成する。この間にあるのは、パリに迫っていたドイツ軍が撃退されたヴェルダン戦である。彼が同一化している文明の危機が彼の中の何かを変えた。さらにこの時期までの彼は、別の詩となる予定のものも「若きパルク」に投じている。あたかも備品さえ缶に投じて走る絶望的な船の観がある。ところがこの時を契機に「パルク」の一部、時には一句を本歌として「魅惑」の諸詩篇が生まれてゆく。収斂から発散への転換が行われたということができる。
この変化と並んで、ずっと題が決まらなかったこの詩に「若きパルク」LA JEUNE PARQUE の名が与えられる。それは私には PAUL VALÉRY のアナグラムに感じられる。なお、本歌の見つからない「魅惑」詩篇に「失われた酒」LE VIN PERDU があるが、これは VERDUN のアナグラムではないだろうか。内容も「失われた血」を歌ったものである(「精神の危機」に同じ比喩が使用されている)。両者相まって一九一六年夏が彼にとってもヴェルダンであったことを示唆するように私には思われる。(中井久夫「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)
■「訳詩の生理学」より
散文を歩行に、詩を舞踏に例えたのはポール・ヴァレリーである。T・S・エリオットはこれにやんわりと異議を唱えて、詩と散文とはそれほど明瞭に区別されるものではないと述べている。
これは英詩とフランス詩との相違をも写し出していて、英詩には「歩行的」な「語り」が現代に至るまで少なくない。フランス詩、少なくとも二十世紀のフランス詩とは全く異なる。例外としてサン=ジョン・ペルスの「アナバシス」を挙げることもできるかもしれないが、この「語り」は英詩の基準からすればおおよそ曖昧模糊としたものである。
その底をさぐれば、詩と散文との両者を媒介〔なかだち〕し、そして本来はエクリチュール(書かれたもの)でなくエノンセ(口を衝いて出るもの)である詩劇というもののイギリスとフランスとの違いが絡んでくるだろう。フランスのラシーヌ劇の詩的完成はシェイクスピアの及ばないところであるが、ラシーヌは何よりもまず詩として、それも厳格な規則に従ったアレクサンドラン詩形の技巧の極致として耳を打ってくる。これに反してシェイクスピアを純粋に詩として聴く人はあるだろうか。ラシーヌの舞台が観客からいわば無限遠にあるのに対して、シェイクスピアの観客は舞台の上にあがって、そのダイナミズムに合流する。
詩作者としてのヴァレリーが「詩とは舞踏である」という時、彼はおそらくソロで舞踏する姿を思い浮かべていたのであろう。そうだとすれば訳詩というものはデュエットでの舞踏である。原詩の足を踏むかもしれないし、完全に合わせることはできないだろう。程度の差はあってもぎこちないパートナーだろう。しかし、それにもかかわらず、散文の翻訳とはちがう。訳詩者はただ並んで歩き、たかだか歩調を合わせればよいのではない。もっと微妙で多面的な波長合わせが必要である。手を取り合い、足をからませ、肌を合わせ、時には汗を浴び、体臭をふんだんに嗅ぎ、思いがけない近さで顔の造作を眺め、そして醒めていながらも陶酔を共にしなければならない。訳詩者の「舞踏」はそういうものである。したがって、訳詩の過程によって訳詩は原詩よりも劇詩に近づく傾向があって、それはたいていの場合にそうあるよりほかないものである。(中井久夫「訳詩の生理学」)
最後にーー、これまで日本語とフランス語ならフランス語との言語的懸隔は翻訳の最大の敵のように思われてきた。これは口実に過ぎないと私は思う。ヴァレリー詩のイタリア訳やスペイン訳は原詩のパロディにならないための大層な努力が払われていて、しかもどこか滑稽さをまぬかれないところがある。標準日本語の詩の吉利吉利語訳というものを考えてみればわかりやすいであろう。そういう意味では日本語のほうが有利なのである。
私は現代ギリシャ語の詩の翻訳から入った。ここから入らなければ私は訳詩者にならなかったであろう。言語学的には双方の隔たりは著しい。しかし、母音がアイウエオの五個、語尾が母音でなければ n あるいは s 、まれに r で終わり、せいぜい部分的にしか押韻できず、文語と口語との差が大きくてしかもお互いになしではすまず、抽象名詞が長い単語でしばしば不細工であり、詩の一行が長い(しばしば十五から二十数シラブル)などの点に目を向ければ、現代ギリシャの詩人は詩の言語としての現代ギリシャ語に、日本の詩人が日本語に直面するのと同じ困難を感じているであろうと思われた。彼らがどのようにそれに挑み、しばしば優れた詩を生み出しているのかを知ったことが私を訳詩の世界に導いたのであった。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年)
■中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」より
ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。
きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……
(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)
もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。
視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。(……)
私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている(……)
私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」初出1992年『精神科医がものを書くときⅡ』所収)
■ヴァレリー「散文詩九編」後記
散文詩と詩、特に自由詩とはどうちがうのか。日本語現代詩を諧謔的に「改行された散文詩」という人がいる。しかし、私見によれば、改行には意味がある。まず、改行は一拍子あるいはそれ以上の休止を意味する。次に改行のたびに音はリズムもアリテラシオン(頭韻)もアソナンス(母音の響き合い)も質を変えてよい。意味も跳躍を許される。すなわち、改行は詩に転調、変調、飛躍、回帰を許す。そして、改行は朗読を、ゆるやかにであるが、指示する。特に、長い一行は早く、短い一行はゆっくりという読み方を促す。
しかし、散文詩は違う。定義からして基本的に一パラグラフが一行の詩と私はみなす。
もちろん、散文詩は詩としての肉体を持たないわけではない。実際、訳出の上で、原文を筆写し、音読を繰り返すことが突破口を開いた力の一つである。しかし、詩の訳出が軽い憑依状態であるとすれば、散文詩の訳出は数式を解くのに近いクールな快感を伴う営みであった。(ヴァレリー「散文詩九編」後記 中井久夫、2005年)
■「私と現代ギリシャ文学」より
自由詩における改行の意味はどういうところにあるだろうか? 散文詩とどこが違うのであろうか。これには、十分な説明を聞いたことがない。私はこう考えている。読む速度をひそかに規定しているのであろう、と。長い行は速い速度で、短い行はゆっくりした速度で読みように、という指示を下しているのである。散文詩とは、ほぼ同じ速度で読まれる詩である。音韻的には、散文とはそういうものであるというのが、私だけの定義である。同じエリティスの詩でも「狂ったザクロの木」は「エーゲ海」よりも速い速度で読まれるのが自然だと私は思い、私の翻訳では、そのように訳してある。思い入れたっぷりの現代日本詩の朗読法は私の好みではない。現代ギリシャ詩の朗読のように、もっと速い速度で、過度の抑揚を付けずに、ほとんど散文的に、しかし行の長さによって速度を変えるか、行間休止時間を変え、頭韻や脚韻に注意して読まれるべきである。そうすれば、日本語においても、母音と母音、子音と子音の響き合いによる美しさが現れるはずである。
ついでにいえば、私にとって、詩とは言語の徴候的使用であり、散文とは図式的使用である。詩語は、ひびきあい、きらめき交わす予感と余韻とに満ちていなければならない。私がエリティスやカヴァフィスを読み進む時、未熟な言語能力ゆえに時間を要する。その間に、私の予感的な言語意識は次の行を予感する。この予感が外れても、それはそれで「快い意外さ la bonne surprise」がある。詩を読む快楽とは、このような時間性の中でひとときを過ごすことであると私は思う。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)
■「ギリシャ詩に狂う」
突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、ニ人のノーベル賞詩人セ フェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。
若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。
次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっと駆け出す風のリズムがあった。
原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう”乱れ”。文語が厳存し、ロ語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。
私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは、「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂 ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群とともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」1984年)
■「「私の中のリズム」--『現代ギリシャ詩選』を編んで」
……私の訳した詩人四人中三人までが俳諧を作っているのでもわかるとおり、ギリシャの現代詩人で俳諧に親しんでいる人が多いらしい。シリアでもそうらしいことは奴田原睦明『エジプト人はどこにいるか』(1985年)という本にあるから、レヴァント地域の詩的・知的風土だろうか。あるいは、古代ギリシャの二行詩、中東の四行詩以来の伝統なのだろうか。とにかく、セフェリスの、私の訳が「たそがれの暗さの中でも/あけぼのの初の光のなかでも/ジャスミンの/かわらぬ白さ」となっている原詩は、五・七・五合計十七シラブルである。そして、これはみすず書房の吉田欣子さんの慧眼どおり「あけぼのや 白魚の白きこと一寸」(芭蕉)の本歌取りに違いない。こうなれば感受性の親近性もありそうである。(中井久夫「「私の中のリズム」--『現代ギリシャ詩選』を編んで」1986年)
翻訳は徹底的な、しゃぶりつくす読書である。音読可能であることを心掛ける。自分でテープに入れて聞く。そしてひっかかるところを直す。朗読してもらうこともある。専門の書籍の場合には原書にはなくても小見出しをつけ、索引を作り、さらに引用の索引まで作る。比較的初心の人に読んでもらって理解しにくいところは改める。ここまですると、散文の場合には原書を読む気がしなくなる。訳から原典がいつでも喚起されてくるからである。ところが、詩の場合はそうではない。すぐれた詩には、翻訳すると、ますます原詩に淫するようにさせるものがある。散文と詩との相違である。
五十歳になって、現代ギリシャ詩の翻訳に手を染めたのは私自身にも謎である。現代ギリシャの詩に挑戦したのではなく、向こうから語りかけてきたのである。とにかく私は言語の「意味の縁暈(halo) 」 や音の響きや、その起こす口腔感覚に異常に敏感になった。私は半ば冗談に、「病[やまい]だれ」の言葉ばかり二十年書いてきたので私の言語意識が反乱したのだろうと言うことにした。この異常な状態は一年ほどで下降に向かった。たまたま中国の留学生がやってきて、私は中国語を使わなければならなくなったということもある。
こう書いてきて、私はさぞ何カ国語か喋れるだろうと思われそうな気がしてきた。私は日本語でも聞き取れないことが多く、私と話す人は、私の聞き返しの多さにうんざりされるはずである。英語すらまともに話せないのが私の実情である。耳が悪いのである。(中井久夫「私と外国語」1994年)
■「翻訳の世界」翻訳者選者としてのコメント(1992年)
①美わしのベンガル(ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅彦訳)
②官能の庭(マリオ・プラーツ、若桑みどり訳)
③パウル・ツェラン全詩集(中村朝子訳)
④フランス中世文学集3 笑いと愛と(新倉俊一、神沢栄三・天沢退二郎訳)
⑤比較精神医学(H・B・マーフィ、内沼幸雄他訳)
⑥地中海Ⅰ、Ⅱ(F・ブローデル、浜名優美訳)
⑦カミュの手帖(大久保敏彦訳)
⑧世界宗教史Ⅲ(ミルチャ・エリアーデ、鶴岡賀雄訳)
⑨オランダ・ベルギー絵画紀行(フロマンタン、高橋裕子訳)
⑩現代ロールシャッハ・テスト体系(エクスナー、秋谷たつ子他訳)
臼田訳は一読脊髄を快い戦慄が走る。熱帯樹を伝う雨の雫、稲田にこもる湿気がそくそくと身に迫る。体言止め、SVO文の多用。しかも違和感なく、立原道造より出て彼を超える詩語の可能性を示す。早世したベンガル詩人の原語よりの訳という珍しさをはるかに超えている。 『官能の庭』の訳には敬服。ツェラン単独訳は力業。ただ「ぼく」「お前」はリルケ邦訳ですり切れた代名詞かと思う。『フランス中世文学集』はチョーク臭のない学者と詩人の愉しい共作。読みとおせる長い訳詩はなかなかない。重要な大部の学術書訳出の努力に感謝し、文体の一層の洗練を願うーー「のだ」「なのだ」の節約など。妄言多謝。(中井久夫「「翻訳の世界」翻訳者選者としてのコメント」1992年)
したたるほどのイメージが(いや視覚だけでなく聴覚も嗅覚も身体感覚さえも) 鮮明強力に立ち上がってくるすばらしい例を挙げたい。………「美わしのベンガル」(ジボナノンド・ダーシュ、臼田雅彦訳)…(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
君たちはどこへでも好きな所に行くがいい、私はこのベンガルの岸に
残るつもりだ そして見るだろう カンタルの葉が夜明けの風に落ちるのを
焦茶色のシャリクの羽が夕暮に冷えてゆくのを
白い羽毛の下、その鬱金(うこん)の肢が暗がりの草のなかを
踊りゆくのを-一度-二度-そこから急にその鳥のことを
森のヒジュルの樹が呼びかける 心のかたわらで
私は見るだろう優しい女の手を-白い腕輪をつけたその手が灰色の風に
法螺貝のようにむせび泣くのを、夕暮れにその女(ひと)は池のほとりに立ち
煎り米の家鴨(いりごめのあひる)を連れてでも行くよう どこか物語の国へと-
「生命(いのち)の言葉」の匂いが触れてでもいるよう その女(ひと)は この池の住み処(か)に
声もなく一度みずに足を洗う-それから遠くあてもなく
立ち去っていく 霧のなかに、-でも知っている 地上の雑踏のなかで
私はその女(ひと)を見失うことはあるまい-あの女(ひと)はいる、このベンガルの岸に
■「詩を訳すまで」
私は多くの文章を暗誦したり筆記する習慣がある。よい文章とは口唇感覚にも口腔感覚にも発声に参与する筋の筋肉感覚にも快い。筆記感覚でさえうれしい。私には、言語の深部構造とはチョムスキーのいう構造主義的なものを突き抜けて、こういう生理的・官能的なものにまで行き着くのではないかとひそかに思っている。実際、同じ口唇感覚であり口腔感覚であり、ノドと下顎を動かす筋肉であるためか、私に合った詩や散文を現前させている時には、ほとんど現実の果実を果汁を滴らせながらかぶりついている感覚を感じる。
果実が溶けて快楽〔けらく〕となるように
その息絶える口の中で
その「不在」を甘さに変えるように
――ポール・ヴァレリー「海辺の墓地」第五節――
しかも、詩の果実は実在の果実と違って口の中に消えてもまた再生する!
五十歳の秋になって、何度目かの言語の節目が現れた。偶然の機会から詩を訳すようになったのである。「精神」「分裂」「傷害」「解体」というたぐいの語ばかりを語り、そういう字を書くことに私の言語意識が耐えられなくなって反抗を起こしたのであろう。ヴァレリーは「ほんとうに言葉が歌うのだよ」と言っているが、私にも、一つ一つの日本語の単語がほんとうに歌うように感じられる時期があった。その伴示、類語、類音語、音調、イマージュ、色調、粘膜感覚と筋肉感覚などで一語一語が重すぎるほどであった時期があった。頭韻や半階音が寝床までつきまとったこともあった。訳詩が完成して一年ほど経って、それが消えていることに気づいた。その時の詩集のページは知らん振りをして横顔を見せている少女のようであった。私は「詩がさっぱりわからない」という人には詩がこういうふうに映っていることを理解した。(中井久夫「詩を訳すまで」1996年)
調布への電車は新宿から出る。よく駅ビル五階にあった山下書店に寄った。この書店で私好みの本に出会うことが多かった。
それでも、その日は特別の日だった。ふと手に取った本の第一ページから、字が、行が、行の並び行くリズムが、私の眼に飛び込んできたからである。
「棕櫚…!/あのころおまえは緑の葉の水にひたされたものだ。そして水はまだ緑の太陽のものであった。おまえの母の下脚 (はしため)たち、大柄で肌つややかな娘らがふるえているおまえのそばで熱いふくらはぎをうごかしていた…」
「植物の熱気、おお 光、おお 恵み!/それからあの蝿たち あの種の蝿ときたら、庭のいちばん奥の段へと、まるで光が歌っているかのように!」
「想いだすのは塩、黄いろい乳母が私の眼尻からふきとらねばならなかったあの塩。/黒い妖術師が祭式に際してしかつめらしく宣言していた、〈世界は丸木舟のごとし。ぐるぐる廻り廻って、風が笑わんとするか泣かんとするかをもはや知らぬ.…〉/するとたちまち私の眼は 輝く波にゆられる世界を描こうと努めて、木の幹になめらかな帆柱を認め、葉蔭に檣楼をまた帆桁を、蔓草に支檣索を認めるのだった。/そのしげみでは 丈高すぎる花々が/鸚哥の叫びをあげてかっと開くのであった。」
今こうやって写してゆくと、隠してある頭韻を初め、訳詩者としてのさまざまの工夫がわかる。しかし、その時の私は分析的な見方など思いもよらなかった。熱帯の過剰な光と熱気の全体が私を襲った。それは、棕櫚への呼びかけから始まって、樹林の帆船の装具、かっと口を開く丈高い花々のインコの叫びという諸感覚の陶酔的混乱までクレッシェンドに高まるのだった。もちろん、これは序の口に過ぎなかった。その本は、象牙色の表紙に金文字で『サン =ジョン·ペルス詩集/多田智満子訳/思潮社』とあった。一九六七年の初夏であった。
私はただただ驚嘆した。フランス語の詩、特に象徴詩には、少年時代に親しんだことがあり、いくつかは暗唱するまでになっていたが、学者たちのこごしくこちたい邦訳は私の心の琴線を掻き鳴らすものではなかった(上田敏や永井荷風の言葉もやや遠かった)。(……)
あたかも、私の仕事は技術的に一○年を待たなければ突破できないような困難に際会し、そして上司との間も微妙になっていた。私は、それまでの仕事をまとめてチェコの雑誌に発表し、精神科に替わった。当時、"精神分裂病"はデルフォイの神託になぞらえられていた。そこではまだ現状を変えるために少しはやれることがあるように感じた。
精神科で診療を始めたことは、私には、文学への回帰でもあった。ちょうどその時に出会ったのが多田さんのサン=ジョン・ペルス詩集であった。いっとき、私は、それまでの日本詩を挨っぽいものと感じた。それほど、彼女の訳文は、むいたばかりの果実のように汚れがなくて、滴したたるばかりにみずみずしかった。
「..…ところでこの静かな水は乳である/また 朝の柔らかな孤独にひろがるすべてのものである。/夜明け前、夢の中のように曙を溶かした水で洗われた橋が空と美しい交わりをむすぶ。そして讃うべき陽光の幼い日々が いくつも巻いたテントの棚をつたって じかにぼくの歌に降りてくる。/…/いとしい幼年期よ、追憶に身をゆだねさえすればよい…あのころほくはそう云ったろうか? もうあんな肌着などほしくない/…/そしてこの心、この心、ほらあそこに、心は橋の上をずるずると裾ひきずって行くがよいのだ、古びた雑巾ぼうきよりもつつましく 荒々しく/くたびれ果てて…」
私は、そのような形で幼年期に訣別したわげではなかったけれども、いっときは、幻想の中で、カリブ海で幼年期を過ごしたかのような錯覚に陥ったほどであった。この今は三四年を経ていかにも古びた詩集は、私にとって大きな里程標となってなお本棚にある。(中井久夫「多田智満子訳『サン=ジョン・ペルス詩集』との出会い」2001年)
………
中井久夫は、『日時計の影』の「あとがき」でエリティスの「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」の訳について次のように書いている、《…拙い翻訳ながら、私の訳詩の中では最良のものかと、ひそかに思っている。翻訳をしながら、また読み返しながら、涙がごみあげてきたのは、他にも絶無ではないが、訳者を泣かせるパワーがいちばん大きかったのはこの詩である》。
この長詩は一から十四節まであるが、ここでは冒頭と五だけ抜き出す。
アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩
オディッセアス・エリティス 中井久夫訳
一
太陽が初めて腰をおろしたところ、
時が処女の瞳のように開いたところ、
風がハタンキョウの花びらを雪と散らしたところ、
騎兵が草の葉を白く光らせて駆け抜けていったところ、
端正なスズカケの樹冠がしなうところ、
高く掲げた長旗がはためいて、水と地とに尾を揺らすところ、
砲身の重さに背が曲がるのではなく、空の重みに、世界の重みに背がしなうのである。
世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。
今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。
今、苦悶が総身に覆いかぶさり、
骨の浮いた手が、花を摘んでは握りつぶす、一本 また一本と。
水無瀬の河の涸れ谷に憂いのみ多くして、歌は死に、声は絶え、
居並ぶ岩の列は髪ひややかなる僧のごとく、声を殺して
たたなわる原野を横ざまに切る。
身も心もこごえる冬。不運に不意を打たれる予感。
猪背〔ししせ〕の虚国〔むなくに〕の山並のたてがみ。
空の高みに禿鷹は舞う、高く高く、空の小さなパン屑を取り合って。
五
太陽よ、太陽は万能ではなかったか?
鳥よ、鳥は絶えず動いてやまない喜びの瞬間ではなかったか?
かがやきよ、かがやきは雲の大胆ではなかったか?
庭よ、庭は花の泰楽堂ではなかったか?
暗い根よ、根は泰山木を吹くフルートではなかったか?
雨の中で一もとの樹がふるえる時、
魂の立ち去った身体を不幸の女神が黒ずませてゆく時、
狂った者がおのれを雪で縛る時、
ふたつの眼が涙の流れにゆだねられる時、
その時、鷲は若者のゆくえを尋ねる。
鷲の子は皆、若者がどこへ行ったかときづかう。
その時、母はわが子のゆくえを尋ねて溜息をつく。
母たちは皆、その子のゆくえをきづかう。
その時、友は尋ねる、わがはらからのゆくえを。
友は皆、いちばん若いはらからのゆくえをきづかう。
指が雪に触れれば指は雪の熱さにたじろぎ、
その手に触れれば手は凍りつき、
パンを噛めばパンは血を滴らし、
空の深みを見やれば空は鉛の死の色となる。
なぜだ、なぜ、なぜなぜなぜ、死は体温を与えず、なぜ、こんな聖餐でもないパンが血を流し
なぜ、こんな鉛の空があるのだ、いつも太陽が輝いていたところに?
エリティスの『アルバニア戦線にたおれた一少尉のための悲歌』の翻訳には、私自身の戦争体験たとえば機銃掃射を受けた経験が役に立った。あの詩の前半には、私のもっともすばらしいと思う詩句があり、最初の一節は私がひそかに誇る部分である。(中井久夫「私と現代ギリシャ文学」1991年)