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2019年9月16日月曜日

「バカしかいない」という言い過ぎ

やあ、「エロス=享楽=死」で「日本ラカン派が何を言っているのかはしらないが、ボクの知る限りでは、バカしかいないね」って記してしまったのは、ま、言い過ぎだとしてもいいよ。

で、松本くんの話だな。ボクは読んでない本についてコメントしたくないのだけれど、享楽社会論の「はじめに」だけネットに落ちていたから読んでみはしたよ、そこだけね。

「享楽」は、死を賭した革命にも似た甘美な破滅に彩られた「不可能なもの」としてのそれから、消費社会における「エンジョイ」、つまりは制御の可能なものとしてのそれへと変貌することになる。(松本卓也『享楽社会論』2018)


河野一紀くんの書評にもこうあるから、はじめにだけでなく、こういったことが一貫して書かれているのだと推測する。


タイトルが示すように、本書におけるラカン読解と現状分析の鍵となるのは享楽概念であるが、その理論的変遷―死のイメージをまとった不可能な享楽から制御可能な「エンジョイ」としての享楽への移行―を著者はとりわけ強調する。(享楽社会論 現代ラカン派の展開 書評、河野 一紀)


《「享楽」は、死を賭した革命にも似た甘美な破滅に彩られた「不可能なもの」としてのそれ》というのは、まずはたとえばセミネール7の次の発言にかかわるはず。

享楽の侵犯 la jouissance de la transgression(ラカン, S7, 30 Mars 1960)

そして10年後のセミネール17で次のような移行がある。

人は侵犯などしない!on ne transgresse rien ! …

享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である。Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption(ラカン、S17, 26 Novembre 1969)

だからラカンにおいて移行があったのは確かだが、《消費社会における「エンジョイ」、つまりは制御の可能なものとしてのそれへと変貌する》とは、どうみても misleading な表現。そもそも「享楽の侵入」ってのはこういうことなんだから。

「唯一の徴 trait unaire」は、…享楽の侵入 une irruption de la jouissance を記念するものである。commémore une irruption de la jouissance (Lacan, S17, 11 Février 1970)
私が「徴 marque」、「唯一の徴 trait unaire」と呼ぶものは、「死の徴 (死に向かう徴付け marqué pour la mort)」である。…これは、「享楽と身体との裂け目、分離 clivage, de cette séparation de la jouissance et du corps」…傷つけられた身体désormais mortifiéを基礎にしている。この瞬間から刻印の遊戯 jeu d'inscriptionが始まる。(ラカン、S17, 10 Juin 1970)

たぶん松本くんは資本の言説における剰余享楽についてガンバッテ説明しようとして、どこかで道を踏み外してしまったんじゃないか。

「剰余享楽」は、原マゾヒズムという享楽の穴埋めのことで、その底にある原マゾヒズム=享楽(享楽の漂流)はラカンにおいてけっしてなくなっていない。

剰余享楽 le plus de jouir は(……)享楽の欠片である。le plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

穴埋めというのは 「享楽の多層構造」で示した図に依拠して言えば、Σ= S(Ⱥ)より上はすべて穴埋め。



S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたはȺという穴 [trou de A barré [Ⱥ]]を支配するmaîtrisez。(J.-A. MILLER, UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE, 2007)
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

※その他もろもろは「穴ウマと穴埋め(四種類の対象a)」を参照のこと。


だから簡潔に図示すれば、次のようになる。




以下、ラカンの享楽をめぐる発言をいくらか掲げるが、冒頭の左(1966年)に「享楽という原マゾヒズム」を語って、冒頭の右に掲げた1976年にも「享楽=マゾヒズム」と言っている。そして原マゾヒズムはフロイトにとって自己破壊欲動=死の欲動。

まさか自己破壊欲動をエンジョイするわけはないからな。自己破壊性にたいする防衛あるいは昇華が剰余享楽だよ。

ラカンの昇華の諸対象 objets de la sublimation。それらは付け加えたれた対象 objets qui s'ajoutent であり、正確に、ラカンによって導入された剰余享楽 plus-de-jouir の価値である。(JACQUES-ALAIN MILLER ,L'Autre sans Autre May 2013)

だから死の相にかかわる享楽は、最後までラカンにはある。



享楽という原マゾヒズム=死への道
私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
原マゾヒズム =自己破壊欲動=死の欲動
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。

他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な(=受動的な)意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


何度も掲げているがフロイトの基本的考え方は上にあるように次の図。