享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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享楽という語は多層構造になっており、基本的にはこう記せるとわたくしは考えている。
ーー各段階における横棒において去勢がある。去勢とは身体的なものの喪失である。
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離 Trennung von der Mutter、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
①底部の二つ、「享楽=死」と「享楽の漂流」は、「エロス=享楽=死」で記した通り。
右底部のAとは、セミネール9,10の次の二つに依拠している。
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
②「享楽の固着」と「享楽の飼い馴らし」は、「排除=外立=固着」で示した通り。そこでは「意味の享楽」=「フェティッシュ」は省いて次のように図示してある。
③「フェティッシュ」については、「穴ウマと穴埋め(四種類の対象a)」を見よ。
いまは二文のみ抽出しておく。
対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)
対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet »(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)
ーー 骨象 osbjet としての対象a が、享楽の固着(リビドー固着)のことである。
「穴ウマと穴埋め(四種類の対象a)」では「意味の享楽」の説明は省いているので、ここでは以下のミレール文を付記しておく。
人はラカンがファルス用語でシニフィアンを書こうとする試みに出会って、あらゆる難解さを見る。
ラカンは分析経験において外立するシニフィアンを、(-φ)と書く。去勢としての(-φ)である。恐怖を生む最後の真理 vérité dernière qui produirait de l'horreur としての去勢である。…
次にラカンは、大きなファルス Φ として去勢を書く。現実界的ファルスのシニフィアンsignifiant phallique réelである。彼はΦは否定不可能だと明示的に言っている。ラカンは(-φ)とΦを、一つのシニフィアンと別のシニフィアンとして関連づけることによって複合構築construction complexe の試みをしている。
ラカンはなぜそれで満足しなかったのか? なぜなら、ファルスは繋辞 le phallus c'est une copule だから。そして、繋辞は大他者と関係がある la copule c'est un rapport à l'Autre。これは、斜線を引かれたA[grand A barré](Ⱥ)の論理と反対である。したがってラカンは(a)と書く。
対象a は繋辞ではない。これが、ファルスとの大きな相違だ。対象a は、享楽の様式 mode de jouissance を刻んでいる。
人が、対象a と書くとき、自己身体の享楽 jouissance du corps propreに向かう。自己身体のなかに外立 ex-siste する享楽に。
ラカンは対象a にて止まらない。なぜか? 彼はセミネールXX、ラカンの教えの第二段階の最後で、それを説明している。対象a はいまだ幻想のなかに刻まれた 「意味の享楽 sens-joui」である。
我々が、この用語について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界の審級なかに享楽を孤立化する isoler la jouissance comme de l'ordre du réel こと、すなわち、意味において外立的 ex-sistant au sens であることである。(ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de LacanーーLE LIEU ET LE LIEN 6 juin 2001)