聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本主義の言説 discours capitalisteからの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、TÉLÉVISION、AE520, 1973年12月)
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以下、中井久夫(1934年)、古井由吉(1937年生)、柄谷行人(1941年生)を並べるが、三者とも「もう経済成長はもうやめよう」と言っている(すくなくともそう暗示している)。
で、どうなんだろうな、今の若い人たちは。まだ続けたのかね。ま、経済成長を「満喫」してきた世代の爺さんたちが何言ってんだ、という反感反論は当然あるだろうがね。
私の青年時代の1950年代後半は、ささやかな所帯を持ち衣食住にまあ不足しないのが人生の目標で、私もその一人だった。何ともかわいらしい話ではある。しかし、たいていの人は新婚生活を襖一つが隔ての貸間で始めていた。団地に当たった人はどれほどうらやまれたか。抽選の倍率はひどく高かった。人類は、衣食が足りると、礼節を知るよりも先に広大な欲望を抱くようだ。日常語になったフィードバックとは、行動の結果によって次の行動を抑制することだが、現在は行動の結果が次のさらに激しい行動を誘い出す「フィード・フォワード」である。単純化すれば、火事がさらに大火事を作ることである。私が思い起こすのは、クラウゼヴィッツの言葉である。積極的主戦論すなわち直接的アプローチの権化とされている彼でさえ「ある目標を徹底的に追及するならば、その過程で生じる反作用によって、結局その目標を達成できなくなる」と書いている。これは間接的アプローチを主唱する英国の戦略家リッデル=ハート大尉の著書からの孫引きである。人類がこれまでに描いたユートピアは多少の自由制限がある衣食住の足りた社会にすぎない。それ以上の想像力はわれわれにはない。SFの描く未来社会は科学で武装された独裁国である。そして今、衣食住の足りている社会は二割程度で、そこにも大勢の家なき人がいる現状は変わる見通しがつかない。私は人類への希望を捨てていないが、「希望とは現実に対する不信と表裏一体である」というささやきが聞こえなくもない。(中井久夫「グローバリズムの果て」『関与と観察』2005年 )
つい昨日まで選挙中のこととて、「変化」なる言葉がしきりに叫ばれた。アメリカの「チェンジ」がどんな悪路に行き悩んでいるかも知らぬげに。もう半年も経てばその言葉が、眉をひそめて振り返られることになるかもしれない。
変化に変化を重ねてきたそのあげくの、この現在の世界的な行き詰まりではないのか。何をなしてきたか、来し方を問い返すべき時ではないか。
未来像という言葉にも私は疑問を抱く。その言葉で以ってたいていは、輝しき未来、豊かな未来を思い浮かべるのが、もう何十年来の人の習い性となっている。
いま提示されるべき未来は、節度と抑制、そして市場からかろうじて自己を取り戻す未来のはずだ。かならずしも人好きのする未来ではない。
すくなくとも半世紀にわたるこの国の経済成長も、もうひとつの戦争であった、と私は見る者である。武器弾薬こそ使わなかったが、あらゆる「大量(マス)」の方法と技術を挙げての、総動員戦であった、と。戦死者もすくなからず、心身の負傷者に至っては数知れぬことだろう。
初めは踵に迫る貧困が敵であったが、そのうちに敵の正体もはっきりしなくなり、くりかえし襲ってくる不況からの脱出がそのつど危急の要請となった。「景気回復」がかつての「聖戦」にひとしい合言葉となって叫ばれる。いよいよ戦死者負傷者が出る。(古井由吉「六十五年目」『楽天の日々』)
最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」2011年)
近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。
その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)
ま、でもこれについては可能性がかなり高いだろうとだけ言っておこう。崩壊しなくたって、いままでの社会保障制度ってのはもうもたない。それはきまりだ、→「福祉国家維持可能という妄想」
現在の政治は、福祉国家が現行のシステム内部でまだ維持可能だという思いこみで成り立っている。…だが次の事態は瞭然としている。それは、福祉国家が可能であった数十年を経た現在、…われわれはある種の経済非常事態が恒常的になった時代に突入していることである。この時代は、以前にもましてはるかに冷酷な財政引き締め策、給付の削減、医療教育サービスの減少、そしてこれまで以上に不安定な雇用の脅威をもたらしている。
… 現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。いまだ現在のシステムが維持可能だと考えている者たちはユートピアン(夢見る人)にすぎない。(ジジェク、A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY、2010年)
だから新しい社会のモデルを提示しなくちゃいけない。
哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのは世界を変えることである。Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretirt; es kommt aber darauf an, sie zu verändern.(マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一)
だが、だれも提示できていない。日本が率先してやるべきなんだけどな。少子高齢化先進国なんだから。
30年後の2050年じゃないんだ。20年後の2040年にはすでに既存の社会保障制度は事実上おわっている。2020年時点でも高齢者を支えるために毎年30兆円超の借金している国が、2020年の高齢者1人当たり労働人口1.9人から1.4人になったら、もはやどうしようもない。
(これからの日本のために 財政を考える、財務省、令和元年6月、PDF) |
既存システム維持側からの施策は基本的には次の案、もしくはそのヴァリエーションしかない。
ーーじつはこれが実現したって財政破綻を避けるためにはかなり危うい(参照)。そもそもこんな施策が、今のシルバーデモクラシーの国日本で実現可能性があるなどということ自体、想定しがたいということもある。
公的年金所得代替率40パーセントというのは、現在の現役世代の平均月収が35万円としたら現在60パーセントの21万円から、14万円に減少させるということだ(インフレを加味すれば数字は異なってくるが、実質上の年金は現在の14万円相当であるのは基本的には異ならない)。ほかに消費税負担増、そして医療費自己負担等がある。ようするに、なにかを変えないとほとんど「姥捨て山社会」になってしまう。
だからーー安倍がぜんぜんダメなのはモチロンだがーー、選挙のたびに次のようなことを言ってきた「資本主義の侍僕」まるだしの「共産党」のたぐいってのはまったく許せないわけだよな、ボクには。
日本の名目成長率がマイナスだった97年以降、欧米先進国の名目成長率の平均は、アメリカ4.5%、イギリス4.3%、フランス3.1%、ドイツ2.3%となっています。日本でも、国民の所得を増やし、経済の好循環を実現できれば、平均2%台の成長は可能です。そうすれば、税収も増え、10年後には、国税・地方税あわせて20兆円を超える自然増収を実現できます。(「消費税にたよらない別の道」――日本共産党の財源提案、2014年11月26日)
経済改革で、国民の所得を増やせば、それが消費につながり、経済を安定的な成長の軌道に乗せることができます。そうすれば、10年程度先には、国・地方あわせて20兆円前後の税収増が見込めます。(「社会保障・教育の財源は、消費税にたよらずに確保できる」2019年6月)
そもそも持続的経済成長2パーセントなどというのは、今後労働人口が1パーセントずつ減少していく国では奇跡でもないかぎり不可能。この奇跡を前提におバカなことを主張する共産党ってのは、弱者擁護のいつわりの仮面をかぶった「厚顔無恥資本党」でしかない。これでは、人は聖人でなくたって嗤うしかない、《聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit》(ラカン)
アメリカの潜在成長率は 2.5%弱であると言われているが、アメリカは移民が入っていることと出生率が高いことがあり、生産年齢人口は年率1%伸びている。日本では、今後、年率1%弱で生産年齢人口が減っていくので、女性や高齢者の雇用を促進するとしても、潜在成長率は実質1 %程度に引き上げるのがやっとであろう。
丸めた数字で説明すれば,、アメリカの人口成長率が+1%、日本は-1%、生産性の伸びを日米で同じ 1.5%と置いても日本の潜在成長率は 0.5%であり、これをさらに引き上げることは難しい。なお過去 20年間の1人当たり実質GDP 成長率は、アメリカで 1.55%、日本は 0.78%でアメリカより低いが、これは日本においては失われた 10 年といった不況期があったからである。
潜在成長率の引上げには人口減少に対する強力な政策が必要だが、出生率を今すぐ引き上げることが出来たとしても、成人して労働力になるのは20年先であり、即効性はない。今すべき政策のポイントは、人口政策として移民政策を位置づけることである。現在は一時的に労働力を導入しようという攻策に止まっているが、むしろ移民として日本に定住してもらえる人材を積極的に受け入れる必要がある。(『財政赤字・社会保障制度の維持可能性と金融政策の財政コスト』深尾光洋、2015年)
ーーいますぐ移民一千万人計画ぐらいだしたらどうだろうね、「愛すべき」共産党さんよ。
少子化の進んでいる日本は、周囲の目に見えない人口圧力にたえず曝されている。二〇世紀西ヨーロッパの諸国が例外なくその人口減少を周囲からの移民によって埋めていることを思えば、好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ同じ事態が日本にも起こるであろう。今フランス人である人で一世紀前もフランス人であった人の子孫は二、三割であるという。現に中小企業の経営者で、外国人労働者なしにな事業が成り立たないと公言する人は一人や二人ではない。外国人労働者と日本人との家庭もすでに珍しくない。人口圧力差に抗らって成功した例を私は知らない。(中井久夫「災害被害者が差別されるとき」2000年『時のしずく』所収)
2013年から2015年までは2パーセント超の成長はしたわけだけどな。共産党はこの「アベノミクスの博打」をさらに過激にして経済成長を期待するってわけかい? アホラシ!
なぜ財政再建計画は失敗するのか?小黒一正2019.08.20 |