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2019年10月20日日曜日

「道に迷ったラカン」

「道に迷ったラカン」とかぎ括弧つきにしたのは、そのあと直ぐに「前言取り消し=否定」をしているからである。

以下、ミレール2006年である。ーー原文を探したが、金を払わないと手に入らないので英訳から。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と[I said to myself that I might surely show that Lacan lost his way after Seminar X]

いや私はそんなことは言わない、それは私の考えていることではない。[But I don't say that, because that isn't what I think. ](…)

ラカンはセミネールXXに引き続く諸セミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。この形式化はそれ以前の20年間のあいだ忍耐強く構成されたものであるが。…セミネールXXの後にラカンはセミネールXにてスケッチした視野をふたたび採用したのである。

…不安セミネールXにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション

というわけだが、「道に迷った」時期のラカンに嵌りすぎないようにお気をつけを! (たとえば愛すべきジジェクのように? →「ジジェクの現実界定義の誤謬」)。


ミレールの前言翻し(否定)はもちろん意図的であろう。

否定 Verneinung は抑圧されているものを認知する一つの方法である。本来は、すでに抑圧の解除(抑圧の止揚 Aufhebung der Verdrängung )を意味しているが、とはいうものの、それはむろん、抑圧されているものの承認 Annahme ではない。……

分析治療を進めてゆくうちに、…われわれはしばしば否定 Verneinung を克服し、抑圧されているもの Verdrängten の完全な知的承認 intellektuelle Annahme に成功する。だが抑圧過程 Verdrängungsvorgang 自体はその成功によっては未だに解除(止揚 aufgehoben)されない。(フロイト『否定 Die Verneinung』1925年)

ところで、2010年代に入って「知的承認」をしている・・・

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。

Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole.

(⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。

…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
ラカンは女性の享楽 jouissance féminine の特性を男性の享楽 jouissance masculine との関係で確認した。それは、セミネール18 、19、20とエトゥルディにおいてなされた。だが第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される[ la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

ーー否定の話はもちろんジョークであるからお気をつけを!


2014年にはこう言っている。

すべてが見せかけsemblantではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

以上、主流ラカン派のボスがこう言っていることを示した。これを全面的に信用する必要は毛ほどもないことを強調しておこう。


※付記


原抑圧の穴=トラウマ
私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。… ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的である。(Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
身体corps…それは穴である C'est un trou。(Lacan, Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
私は…問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。Je considère que  […] le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (ラカン、S23, 13 Avril 1976)







原抑圧とは、事実上、固着(リビドー固着)のことである。

われわれには原抑圧 Urverdrängung 、つまり欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着Fixierungが行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


原抑圧=超自我=欲動の固着=死の欲動
表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11, 03  Juin  1964
二項シニフィアンの場に超自我を位置付けることの結果は、超自我と原抑圧を同じものと扱うことになる。超自我と原抑圧を同じものとするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)



なにはともあれ現在の臨床ラカン派は固着、固着、固着なのである。固着とはトラウマ的出来事の身体の上への刻印であり、身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに居残ることである。これがリアルな無意識である(言語のように構造化されていない無意識)。

自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)

(一時的に不幸な時期があったにしろ)これを現在もまだはずしている臨床派はもはやモグリである。哲学的ラカン派はいまだほとんどこの固着をはずしてしまっているがヤムエナイことであろう・・・ダロウカ?



後期ラカンの鍵
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)
フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないものであるne cesse pas de s'exercer」. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)