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2019年10月24日木曜日

チバとマツタク

次のツイートを拾った。




「徹底的に個人の人生を言語化すること」、あるいは「徹底的に自由連想で同じ他人に向けてしゃべること」とは、フロイトの「徹底操作 durcharbeiten」のことであり、ラカンの「幻想の横断 traversée du fantasme」のことである。

わたくしは臨床家ではないので、あまりエラそうなことを言いたくないのだが、チバの言っていることは現在の主流臨床ラカン派では否定されつつある、と判断している。

このあたりのことは、たとえば千葉雅也くんと友人関係にある松本卓也くんは十二分に知っているはずだが、どう思ってんだろうね?

幻想の横断が否定されつつあるというのは、たとえばミレール派がこう示している。

身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係をもつ。しかし結局、享楽は自閉症的である。Pierre-Gillesは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない[the analyst should not interpret the fundamental fantasy]。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen、2013、NLS

幻想の横断の臨床とは、「S2へのS1の関係」の臨床であり、ここからの移行があったのは、2000年過ぎからサントームにこだわってきた同じミレール派のThomas Svolosーー彼はFredric Jamesonの弟子でもあるーーがミレールとエリック・ロランに依拠しつつこう明瞭に示している。

父の名に碇を下ろした以前の臨床において、治療は意味作用の経路に沿って方向づけられている。この臨床における享楽は、ジャック=アラン・ミレールが明示しているように想像化された享楽である。つまり象徴化の過程を通して避難させられた享楽である[jouissance that is evacuated through the process of symbolization]。

対照的に、サントームの臨床は、ラカンにララングによって示された方向に沿って組織される。それは諸シニフィアンと享楽とのあいだの直接的つながりをベースにしている。…

エリック・ロランは明示している、「S2へのS1の関係から、S1と対象aとのあいだの関係への移行 shift from the relation of S1 to S2 to the relation between S1 and object a 」が、「ふつうの精神病」の臨床において決定的だと。

多くの治療において、享楽の量[quantity of jouissance]は無傷のままである。しかし精神病者は、自らの享楽を手なづける新しい方法を見出す。

主体のサントームは、主体の対象aとの重要な同一化をなす。…このサントームにて、主体は享楽そのものを取り除かない。そうではなく、享楽と上手くやっていく方法を見出すのである。サントームは精神病者にとってのララングのクッションの綴じ目[point de capiton of lalangue]である。(Thomas Svolos, Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant, 2009)


たとえばラカンが次のように言ったのは、幻想の臨床から、サントームの臨床への移行の文脈のなかにある。

分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕(ラカン “Conférences aux USA,” 1976)


ようするにまともなラカン派においては、旧来の左項の臨床から現在は右項の臨床へと移行しているはずなのである。

(参照:現実界のオートマトン


この思考は、ミレールから距離を置いているが、英語圏では名高いラカン注釈者ポール・バーハウも同様なことを示している。

1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を幻想を横断することと考えた。これが意味するのは、主体が何度ども何度ども反復する強迫的仕方は乗り越えるべき何ものかであるということである。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。サントームは、強く要求する欲動衝迫だけではなく他者の支配を巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純粋に個人的な方法である。[purely private way of dealing with the real, the imaginary, and the symbolic that gets around the dominance of the other as well as around the insisting urge of the drive ](Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、PDF
エディプス・コンプレックス自体、症状である。その意味は、大他者を介しての、欲動の現実界の周りの想像的構築物ということである。どの個別の神経症的症状もエディプスコンプレクスの個別の形成に他ならない。この理由で、フロイトは正しく指摘している、症状は満足の形式だと。ラカンはここに症状の不可避性を付け加える。すなわちセクシャリティ、欲望、享楽の問題に事柄において、「症状のない主体はない」と。

これはまた、精神分析の実践が、正しい満足を見出すために、症状を取り除くことを手助けすることではない理由である。目標は、享楽の不可能性の上に、別の種類の症状を設置することなのである。フロイトのエディプス・コンプレクスの終着点の代りに(「父との同一化」)、ラカンは精神分析の実践の最終的なゴールを「症状との同一化(サントームとの同一化)」(そして、そこから自ら距離をとること)とした。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、New studies of old villains、2009)

ミレール2005年の図に戻れば、左項は「エディプス期以後の臨床」、右項は「前エディプス期の臨床」のことでもあり、これについては日本でも中井久夫が次のようにかねてから言っている。

いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収)

たとえば、中井久夫が次の文で境界例や外傷性神経症と言っているのは、前エディプス的症状のことである。

境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

倒錯についても同じく前エディプス的症状である。

倒錯構造の患者の「自由連想」と治療者の「自由に漂う」注意力は、次の状況を起こしがちである。すなわち倒錯者が(神経症的)治療者を取り扱う(治療する treat)という状況である。何の不思議なことでもない、頻繁に倒錯者を扱う分析家は集団療法を提案しているのは。それは転移的関係性を制御できるようにするためである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, PERVERSION II: THE PERVERSE STRUCTURE、2001年)

ようするに前エディプス的症状は、徹底的に言語化することに向かう「自由連想」には馴染まないのである。

ラカンは学園紛争を機縁に次のようにいった、《父の蒸発 évaporation du père》(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)、あるいは《エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe 》(S18、1971年)と(これは主人の言説から資本の言説への移行にもかかわる[参照])。

現在の父なき時代、エディプスの失墜の時代には、基本的には徹底操作にかかわる自由連想は以前のようには機能しなくなったというのは、「まともな」臨床ラカン派ならコンセンサスになりつつあるはずである(ただし、日本には「まともな」臨床家はひどくすくなく、旧態依然の臨床方法をとったままだという現実はあろうが)。

この父なき時代は、別名、原抑圧の時代とも呼ばれている。

最後のラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される(もはや旧来の症状ではなく、サントーム(原症状)である)。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないナマの症状である。…この原形式とは身体とシニフィアンとのあいだに遭遇にある。…

われわれは「フロイトの原抑圧の時代 the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung」にいるのである。ミレール は「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心理装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。そこにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012

千葉雅也くんというのは、フロイトやラカンの名、あるいはラカンのサントーム概念やらララング概念やらを口に出すことが多いにもかかわらず、精神分析についてそれほど多くのことを知っているわけではないようにみえる(たとえば参照、たとえば参照)。

ただし彼の友人関係にある松本卓也くんは、上の程度のことは「必ず知っている」はずである。マツタクくんは、チバのような言説をほうておいていいんだろうかね、どうなんだろうな?

千葉はシロウトだからしょうがねえや、と思っているのか、それともここで記したことを全面的には受け入れていないってことなんだろうかね。すくなくともボクはああいった言説がデフォルトにならないことを祈ってるがね。

マツタクくんはゼロ年代の旧態依然のラカン解釈に楔を打ち込むために2010年代にはいって頑張って仕事をしたのだから、ああいったチバの古臭い「誤解」をほうっておいたらダメじゃないかな。

日本言論界の流行児チバの言説はある意味で、伝染力があるからな。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

現在ではほどんど誰もが免れがたい「凡庸な知識人の肖像」として、蓮實を引用しておいてもよい。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)