2019年10月25日金曜日

「父の名の排除」は父の名の排除ではなく「S2の排除」

前回記した「S1からS2への関係」とは、「S2へのS1の関係」としたほうがいいかもな、直しといたよ、「S2へのS1の関係から、S1と対象aとのあいだの関係への移行 shift from the relation of S1 to S2 to the relation between S1 and object a」

いずれにせよ、この「S1とS2とのあいだの関係」とは、エディプス的な神経症の症状であり、「S1と対象aとのあいだの関係」が、基本的には精神病の症状(前エディプス的という意味で倒錯も含まれる)。

たとえばラカンのアンコールには次の図がある。




ーーS1からS2になってるだろ? あれは、これを想起しつつの意訳だよ、

この図を父の名の排除をベースにして、より説明的に示せば次のようになる。




父の名の排除とは実際のところは、父の名の排除ではなく、S2の排除(父の隠喩の排除)である。父の隠喩以前のS1自体が、欲動の原象徴化としての父の名(父の諸名)であり、しかも最初のS1とは事実上、「母の名 Le nom de la Mère」=S(Ⱥ) [参照]。

前期ラカン用語なら、この原シニフィアンとしてのS(Ⱥ) は、母なるシニフィアン。

エディプスコンプレックスにおける父の機能 La fonction du père とは、他のシニフィアンの代わりを務めるシニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)premier signifiant introduit dans la symbolisation、母なるシニフィアン le signifiant maternel である。……「父」はその代理シニフィアンであるle père est un signifiant substitué à un autre signifiant。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

中期ラカンは、この母なるシニフィアンとしての原シニフィアンを、《徴の最も単純な形式 forme la plus simple de marque」、「シニフィアンの起源 l'origine du signifiant」》、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17、1970)と呼んだ。

ま、ここではこのたぐいのヤヤコシイことをこれ以上言わないでおいて、シンプルに資料を列挙しておくよ。


父の名の排除=S2の排除
父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
一般化排除=女性のシニフィアンの排除=原抑圧(固着)
女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である。il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”(J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme) 」が関与している。…

私は、フロイトのテキストを拡大し、「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme、これが「性関係はない 」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)
原抑圧 Urverdrängung =S(Ⱥ)
=女というものの排除 la forclusion de la femme
=女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit
原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」…
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femmeである。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 
原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
受動性は女性性Ⱥの代替シニフィアンであり、フロイトの境界表象Grenzvorstellung、ラカンのS(Ⱥ)である。((PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997年、摘要)
(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
(母子関係において幼児は)受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗がある…私は、この「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)
本源的に抑圧されている要素は、常に女性的なものではないかと想定される。Die Vermutung geht dahin, daß das eigentlich verdrängte Element stets das Weibliche ist (フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
S(Ⱥ)=Σ=[S1 sans S2]=Fixierung
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN 」)

反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。

この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1[S1 sans S2]を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
現実界のポジションは、ラカンの最後の教えにおいて、二つの座標が集結されるコーナーに到る。シニフィアンと享楽である。ここでのシニフィアンとは、「単独的な唯一のシニフィアンsingulièrement le signifiant Un」である。それは、S2に付着したS1ではない[non pas le S1 attaché au S2 ]。この「唯一のシニフィアンle signifiant Un 」という用語から、ラカンはフロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。……

私は考えている、この「一と享楽の結びつきconnexion du Un et de la jouissance」(シニフィアンと享楽の結びつき)が分析経験の基盤であると。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」(リビドー 固着)と呼んだものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


※サントームが固着であることのもういくらかの詳細は、「サントームは固着である Le sinthome est la fixation」を参照されたし。


ボクのもともとの問いは、いま上の中段に引用した、ポール・バーハウ1997年の次の二文が始まりだな、これって正しいのだろうか、と。

原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。Primary repression can […]be understood as the leaving behind of The Woman in the Real. (PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)
受動性は女性性Ⱥの代替シニフィアンであり、フロイトの境界表象Grenzvorstellung、ラカンのS(Ⱥ)である。((PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997年、摘要)

で、彼は次の図を提示している。



で、さっきの図と比べてみる。




ーーS1の前にȺを置けば、ピッタンコとなる。

つまりバーハウは正しかったんだな、というのがいまのボクの結論。ただし受動性の排除がすべて女性の排除とは言いがたいようには思う。

そして結局、排除とは固着のこと。ボクはそう考えている。固着とは身体的なものをエスのなかに(異物として)置き残されること。そしてそれが反復強迫を引き起こすのであり、これは排除の定義と同じ。このあたりのことは中井久夫が明瞭に示している内容と同一である、→「解離と排除と外傷神経症」。

ここでーー説明抜きでーー、アンコールの図はほぼこう書き直せるだろうという図を示しておく(サントームΣが二種類あるのは、→参照)。





話を戻せば、以下の用語は、すべてがまったく同じというつもりはないが、ほとんど同じであるとはいえる。

排除と固着 (Verwerfung und Fixierung)


※付記


ラカンってのは排除という語をそれほど厳密に使っているわけではない。

「私が排除 Verwerfung というとき、……問題となっているのは、原シニフィアンを外部の闇へと廃棄することである。ce rejet d'une partie du signifiant (signifiant primordial) dans les ténèbres extérieure (Lacan, S3、15 Février 1956)
排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に排除(拒絶 rejeté)されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


セミネール3の段階では上のように言いつつ、後にはこう言っている。

私が排除 forclusion について、その象徴的関係の或る効果を正しく示すなら、…象徴界のなかで抑圧されたもの全ては現実界のなかに再び現れる。というのは、まさに享楽は全き現実界的なものだから。

Si j'ai parlé à juste titre de forclusion pour désigner certains effets de la relation symbolique, …tout ce qui est refoulé dans le symbolique reparaît dans le réel, et c'est bien en quoi la jouissance est tout à fait réelle, (ラカン、S16, 14 Mai 1969)
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧されている。男にとって女が抑圧されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というものLa Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

ようするに排除といったり抑圧といったりしているわけで、この二文の抑圧とは明らかに原抑圧のこと。

表象代理は二項シニフィアンである。Le Vorstellungsrepräsentanz, c'est ce signifiant binaire. この表象代理は、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。(ラカン、S11、03 Juin 1964)

ま、今のボクにいわせれば、父の名の排除に踊ってきたラカン注釈者たちってバカジャナイノ? という感があるね。