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2019年11月19日火曜日

わたしは犠牲者かつ死刑執行人である

以前にも一度引用した文だ(たしか一年ぐらい前に)。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、二者構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕獲する。

さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気分転換によって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人l'autre qui aime sans être aiméの内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうのだ。今や、この不幸の能動的代理人 agent actif はわたしである。わたしは自分が犠牲者かつ死刑執行人であると感じられる je m'éprouve à la fois comme victime et comme bourreau. 。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」1977年)

ーーこの感覚をまったく覚えない人も世界にはいるかもね、想像力欠如派ってのかな。

次の文さえわからない人もいるようだから。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

これがわからない人というのは真の恋愛をしたことのない人に間違いない。すくなくとも「女になって」愛したことのないひと。最近の若いひとのあいだでは多いのかもしれないけれど。「愛のビジネス」の時代だから(参照)。女だって男への推進力の時代だから。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

さっきの「拷問」と相同的なメカニズムは、まともな心理小説だったらふんだんにでてくるよ、たとえばラクロ、ドストエフスキーやプルーストを読みば。

ドストエフスキーには、これを超えたもっと過激なやつだって出てくる。

フョードル・パーヴロヴィッチ曰く、『それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね』(『カラマーゾフの兄弟』)

ま、これに不感症でもしょうがないけど、すくなくとも世界には二者関係のメカニズムついてはまったく何もわかっていない人がいるわけでね。初歩的心理学音痴ってのかな。いや、それ以前に心理的不感症者だな。

三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。

これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」『徴候・記憶・外傷』所収)
ラカン理論における「父の機能」とは、第三者が、二者-想像的段階において特有の「選択の欠如」に終止符を打つ機能である。第三者の導入によって可能となるこの移行は、母から離れて父へ向かうというよりも、二者関係から三者関係への移行である。この移行以降、主体性と選択が可能になる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radica Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)

これはあんまり関係がない話だけど、で、誤解ってなんだい?

すくなくともあなたはなんにも悪いことはしてないよ、「同じ症状」云々ってやつをくりかえして示しているけれど、分裂病と精神病の区別がまったくついていないのは、ま、しょうがない(でも詳しくしらないことは言わないほうがいいとはいっておくよ)。

分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である。(Stijn Vanheule 、The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011)

話を戻せば、ニーチェは『道徳の系譜』で「負い目(シュルツ)というあの道徳上の主要概念は、負債(シュルデン)というきわめて物質的な概念に由来している」と、いっているけれど、情念の諸形態に債権と債務の関係を見出した点でニーチェはフロイトの先駆者。

「あなたは実際ボクになんにもしやしませんが、その代わりボクのほうであなたに一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にボクはあなたが憎らしくなりましてね」とはニーチェ的には金を借りて返せない者が貸主を憎むこととなる。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しという天秤の左右の皿関係。この心理的機制は多くのことに使える。

ニーチェの同情批判もこのうちのひとつ。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)

同情されて負い目を感じ怒り狂うという話は、これまたドストエフスキー にふんだんにある。

彼にとっては、愛と過度のにくしみも、善意とうらぎりも、内気と傲岸不遜も、いわば自尊心が強くて誇が高いという一つの性質をあらわす二つの状態にすぎないのです。そんな自尊心と誇が、グラーヤや、ナスターシャや、ミーチャが顎ひげをひっぱる大尉や、アリョーシャの敵=味方のクラソートキンに、現実のままの自分の《正体》を人に見せることを禁じているというわけなのです。(プルースト『囚われの女』)