国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収、2005年)
なんどか引用してきた文だが、ま、村祭りだな、農耕民族の。
やむえない気質だね、大方の日本人にとっては。
上の文とは、たぶん次の文のヴァリエーションなんだろう、あとの祭等ってあるから(いまテキトウにいってるからな)。
……このような社会との「折り合い」のむつかしさにもかかわらず、S親和者が人類の相当多数を占めることが、おそらく人類にとって必要なのであろう。かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)
S親和者というのは分裂病親和者のことだが、一般にいわれる分裂病(統合失調症)とは異なると中井久夫は論文の冒頭で断っている、ーー《ここでは古典的「分裂病」概念を直接云々しない》。
2000年の回顧エッセイ「『分裂病と人類』について」(『時のしずく』所収)では、S親和者を「プレ分裂気質者」と呼んで、《私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一文の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う》とある。
以下、『分裂病と人類』からいくつかの表現を抽出して図示しておこう。