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2019年12月17日火曜日

女のタタリ



真理は女である
真理は女である die wahrheit ein weib 、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
女というものは男の真理である la femme soit la vérité de l'homme(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)
真理は女である。真理は常に、女のように非全体 pas toute(非一貫的)である。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(ラカン, Télévision, 1973, AE540)
真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理への意志 Wille zur Wahrheit は、いまだ我々を誘惑している。…我々は真理を欲するという。だがむしろ、なぜ非真理 Unwahrheit を欲しないのか? なぜ不確実 Ungewissheit を欲しないのか? なぜ無知 Unwissenheit さえ欲しないのか?(ニーチェ『善悪の彼岸』第1番、1886年)
生への信頼 Vertrauen zum Leben は消え失せた。生自身が一つの問題となったのである。ーーこのことで人は必然的に陰気な者、フクロウ属になってしまうなどとけっして信じないように! 生への愛 Liebe zum Leben はいまだ可能である。ーーただ異なった愛なのである・・・それは、われわれに疑いの念をおこさせる「女への愛 Liebe zu einem Weibe」 にほかならない・・・(ニーチェ対ワーグナー、エピローグ、1888年)
女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)



女は男にくらべて、よりよく子どもを理解する。ところで男は女よりも子どもめいたものである。

真の男のなかには子どもが隠れている。この隠れている子どもが遊戯をしたがるのだ。さあ、女たちよ、男のなかにいる子どもを見つけ出すがいい。

女たちよ、おまえたちの愛のなかには一つの星が輝いているように! おまえたちの希望は「わたしは超人を生みたい möge ich den Übermenschen gebären!」ということであれ。

おまえたちの愛をおまえたちの名誉たらしめよ。ほかの場合に、女が名誉を解することはほとんどない。いつも、おまえたちが愛される以上に愛すること、愛において第二位にはならぬこと、これがおまえたちの名誉であれ。(……)

これらのことを聞いたときに、年老いた女は言った。「ツァラトゥストラは多くの適切なことを言った。ことに、それを聞かせたいような年若い女たちについて多くの適切なことを言った。

不思議なことだ。ツァラトゥストラは、あまり女を知っていないのに、女について的確なことを言うとは。これも、女というものにかかりあえば、どんな不思議なことでも起こりうるせいなのだろうか。

さて、わたしの感謝のしるしに、一つの小さな真理を受け取るがよい。わたしはわたしの齢のせいでその真理を知っているのだ。

だが、それをよくむつきにくるんで、その口をおさえているがよい。さもないと、大声でわめきたてるだろうから、その真理は」

「女よ、その小さな真理をわたしに聞かせてくれ」と、わたしは言った。すると老婆はこう言った。

「女のもとへ行くなら、鞭をたずさえることを忘れるな Du gehst zu Frauen? Vergiss die Peitsche nicht!」- ―――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」1883年)


女のタタリ
女と猫は、呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る(メリメ『カルメン』1845年)
女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)
問題となっている女というものは神の別の名である。その理由で、女というものは存在しないのである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas (ラカン、S23、18 Novembre 1975)
神の外立(タタリ) l'ex-sistence de Dieu (Lacan, S22, 08 Avril 1975)

一人の女は精神病においてしか男というものに出会わない une femme ne rencontre L'homme que dans la psychose. (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
すべての女は狂っている toutes les femmes sont folles (ラカン、TELEVISION, AE540, Noël 1973)
完全な女は、愛する者を八つ裂きにする zerreisst …… わたしは、そういう愛らしい狂女〔メナーデ Mänaden〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである …(ニーチェ『この人を見よ』1888年)
世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし(蜀山人太田南畝)
世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい(蜀山人)
・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)





Plaie du Christ - bréviaire de Bonne de Luxembourg, fol. 331r -
 The Cloistersles instruments de la passion


谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)
谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)


いまや、迷宮、アリアドネ、ディオニソスその三つの名前だけがニーチェのなかに残された。Maintenant le labyrinthe, Ariane, Dionysos — sont les seuls noms qui subsistent chez Nietzsche (クロソウスキー『ニーチェと悪循環』)
ディオニソス:…私はあなたの迷宮だ…Dionysos:…Ich bin dein Labyrinth...(ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne)1887年秋)
ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…

Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ...(ニーチェ、1887年秋遺稿)
迷宮の人間は、決して真理を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。Ein labyrinthischer Mensch sucht niemals die Wahrheit, sondern immer nur seine Ariadne –(ニーチェ遺稿、1882-1883 )