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2019年12月21日土曜日

やあ感心しちゃうよ

やあ感心しちゃうよ、よほどニブイんだろうな、
まったく読めないんだろうよ、文章が。
最初はそのニブサがとっても興味ぶかかったけどさ。
人間観察の一環としてね

やめといたほうがいいよ、
なにをってあえていわないでおくけど。
傷つけたくないからな

スピノザでも引用しておくさ

また、私は、大衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、大衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また大衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、大衆ならびに大衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)

スピノザでもダメかもな、そのニブサは。

タケシだったらどうだろ。


北野武が語る「暴力の時代」
―監督は先ほど「エンターテイメントに徹している」と仰いましたよね。今言われたような編集で間を詰めるということと、エンターテイメント性というものは、監督の中では繋がっているものなんでしょうか?

北野:うん。結局今の時代ってさ、テレビを観てても、お笑いの奴が喋ってる言葉がわざわざ吹き出しテロップで出てくるじゃない? 耳の不自由な方は別だけどさ、「え? そこまで丁寧なの?」っていう感じがあるんだよね。そういう時代だから、後姿や背中でものを言うなんて時代じゃないのかな、って思うよね。

―なるほど。

北野:登場人物が相手をじっと睨んでて、映画を観てる人に「あ、こいつ絶対復讐を考えてんだな」なんて思わせるような間を作ることができなくなってきてる。「てめえ、殺すぞ」って言った方がいい。

これでもダメかな

吹き出しテロップってのはな、
ま、中島義道は趣味じゃないが、
この際、引用せざるをえないな

私にとって耐えがたいのは、私の本を読み私に過度に興味を抱いて近づいてくる人々である。そのほとんどの人に私は興味がないので、しばらく我慢していても、こうした「不平等関係」が息苦しくなってくる。(中島義道『「人間嫌い」のルール』)
最近、人間として最も劣悪な種族は鈍感な種族ではないかと思うようになった。この種族は、(いわゆる)善人にすこぶる多い。それも当然で、善人とはその社会における価値観に疑問を感じない人々なのだから。(中島義道『人生に生きる価値はない』)
魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(中島義道『差別感情の哲学』)
地上のすべての卑劣なこと、醜悪なこと、凶暴的なことは「正義」の名のもとに行われてきた。いかに合理的であっても、理知的であっても、説得的であっても、愛情に満ちていても、自分を一方的に「正義」の側において、それ以外の者を非難し迫害する者は信用してはならない。(中島義道『善人ほど悪い奴はいない』)