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2019年12月20日金曜日

アタシは寝言派よ、つねに

日本的ユートピアンのために」に引き続くが、鳥語装置で「民主主義」や「政治」を語っている連中は「経済」が弱すぎる、とわたくしは思う。もちろん人にはそれぞれ強い領域と弱い領域があるだろうが、日本言論界においてはオピニオンリーダーとしてふるまっている人物さえ、そのほとんどは「経済」がひどく弱い。

何度か示している文だが再掲する。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

そして『世界史の構造』(2010年)には次の図がある(手元には英訳版しかないのでそれを示す)。




ここでジジェク2004年も掲げる。

イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)

柄谷もジジェクも同様な観点である。柄谷の「世界史の構造」のボロメオの環を60度時計回りに回転させて「資本」を底部にもってきて図示すれば次のようになる。





「国民」とした箇所は「民主主義」としてもよいし「大衆」としてもよいだろう。

民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。(柄谷行人 『〈戦前〉の思考』1994年) 

「国民」に「民主主義」を代入し、「国家」を「政治」、「資本」を「経済」にしよう。



柄谷は三つの環は「相互に補完しあい、補強しあう」、ジジェクは「「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である」と言っているが、ラカン的にいっても、三つの環の結び目Σを考えるには、「経済」が弱かったら埒が明かない。

二宮尊徳的にいえば、経済が弱ければ寝言しかいえない。

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。(二宮尊徳)

ーーもちろん大衆なき経済は犯罪でありうる。

以前、ポピュリスト山本太郎をどんな人物が応援しているかと、いくらかツイッターを覗き見してみたことがあるが、そのときは想田和弘がとても目立った。彼は経済をいくらか勉強しているようにみえて、たかが三文経済評論家や一部のマイナーな経済学者にしか依拠していない。ああ、これではダメだ、と感じたが、ようするに想田和弘は典型的なポピュリスト煽動家にすぎない。

たとえば次のような寝言をしきりに囀っていた。

想田和弘@KazuhiroSoda 2019年09月15日

言いたいのは、僕が山本太郎さんを応援しているのは、彼が政治家として素晴らしいビジョンを示していて、しかもその道筋を提案されているからです。人並外れた努力もされています。リーダーシップもあります。単に「いい人」だから応援しているのではありません
想田和弘@KazuhiroSoda 2019年09月23日

元俳優の山本太郎さんは必死に現場へ足を運び勉強して、今では永田町でも屈指の政策通。一方の俳優みたいな政治家の小泉進次郎さんは、勉強を放ったらかしてステーキ食べて、大臣として管轄分野の環境問題ですら全くの素人であることが露呈。しかし首相候補と騒がれるのは進次郎さん。何かがおかしい。

ポピュリスト愛好家のみなさんはこういったツイートをRTしてたんだろ? いま仮に「転向」したにせよ、恥を知るべきだね。

想田は現在はどうしているのか知らないが、もはやツイートを見る気もしないね。

想田和弘をしきりにRTしていた内田樹もまったくダメだね。

内田樹@levinassien 2019年9月12日

昨日の『赤旗』のインタビューの最後に「共産党に望むことは?」と訊かれたので「山本太郎を真ん中にして、左右にウィングを拡げて挙国一致で救国戦線を結成してください」とお願いしました。よい流れだと思います。

で、オピニオンリーダーとして振舞っている人物さえこれなんだから、そのあたりの経済音痴のボウヤやオジョウチャンたちははやいところ自覚すべきだよ、「アタシは寝言派よ、つねに」と。

ここで上の話とは若干ことなるが、ジジェク文をいくつか列挙しておこう。

ポピュリズムが起こるのは、特定の「民主主義的」諸要求(より良い社会保障、健康サービス、減税、反戦等々)が人々のあいだで結びついた時である。(…)

ポピュリストにとって、困難の原因は、究極的には決してシステム自体ではない。そうではなく、システムを腐敗させる邪魔者である(たとえば資本主義者自体ではなく財政的不正操作)。ポピュリストは構造自体に刻印されている致命的亀裂ではなく、構造内部でその役割を正しく演じていない要素に反応する。(ジジェク「ポピュリズムの誘惑に対抗してAgainst the Populist Temptation」2006年)

いくらなんでもジジェクファンの方なら、「ラディカル・デモクラシー」を唱えるエルネスト・ラクラウやらシャンタル・ムフを昔から馬鹿にしてきたことぐらい知っておくべきじゃないかね。 

現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義であるというバディウの主張は、正しい。それは、資本主義的諸関係の根源的な変革を妨げる究極的な枠組みとして「民主的な機構」を捉えることを意味している。 (ジジェク「永遠の経済的非常事態」2010年)

Badiou was right in his claim that the name of the ultimate enemy today is not capitalism, empire or exploitation, but democracy. It is the acceptance of ‘democratic mechanisms' as the ultimate frame that prevents a radical transformation of capitalist relations. (Zizek, A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY, 2010)
ファシズムと同様に、ポピュリズムは、たんに資本主義を新しい方法で想像するものにすぎない。ポピュリズムは、その非情な残酷さなき資本主義・社会的な破壊効果なき資本主義を想像する新しい仕方だ。(ジジェク Are liberals and populists just searching for a new master? 2018