「1」とはシニフィアンのことである。人間はシニフィアンによって身体的なものを喪う。上図の(a)とは去勢という意味である。
私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
初期ラカンはこの去勢をコジューブ=ヘーゲルに依拠しつつ「モノの殺害」と言った。
シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。(ラカン、E319, 1953)
この時期のラカンはモノの殺害ということにより象徴的去勢(言語を使用することによる去勢)を言っている。たとえば人は「私」という一人称代名詞を使うことによって身体的なものを喪う。ゆえにほとんどの人は死ぬまで「私」というシニフィアンの使用によって喪われてしまったなにものかを捉えようと不可能な試みをし続けて反復する。
だが去勢は象徴的去勢だけではない。
享楽は去勢である。la jouissance est la castration. (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
さていま掲げたスキーマの底部から始めよう。
①出産外傷により原享楽が喪われる(フロイトはこの出産外傷を「去勢の原像 Urbild jeder Kastration」 、「母の去勢 Kastration der Mutter」、「原トラウマUrtrauma」等と呼んでいる)。ここで享楽の漂流(享楽の彷徨い=死の欲動)が発生する。
②享楽の漂流の留め金としての固着(享楽の固着=リビドーの固着)により、身体的なものがエスに置き残される。
③享楽の漂流の境界表象にすぎない固着を飼い馴らすためにファルスが介入するが、ここで生じるのが象徴的去勢である。ようするに十全なる飼い馴らしは不可能であり、身体的な残滓が発生する。
ーーこれ以外に主に禁止による去勢、想像的去勢等があるが、ここでは簡略化のため割愛。
シニフィアンが介入すればーーたとえば語表象だけではなく、フロイトのいう事物表象(イマーゴ)でもーー常に1と対象aがある。
常に1と他、1と対象aがある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)(Lacan, S20, 16 Janvier 1973)
前期ラカンはこの刻印を「母なるシニフィアン signifiant maternel」(S5, 1958)と呼び、中期には「原シニフィアン」あるいは「享楽の侵入の記念 commémore une irruption de la jouissance」(S17、1970) と呼んだ。
この刻印を、後期ラカンは原症状としてのサントーム(サントームの享楽)と呼ぶようになる。
まさに享楽がある。1と身体の結びつき、身体の出来事が。il y a précisément la jouissance, la conjonction de Un et du corps, l'événement de corps (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN – 18/05/2011)
ラカンはサントームΣを「1がある Y'a d'l'Un」に還元したとき、この「1がある」は、シニフィアンの分節化の残滓として、現実界の本源的反復を引き起こす。ラカンは言っている、2はない[il n'y a pas de deux]と。この反復においてそれ自身を反復するのは、ひたすら1である。しかしこの1は身体ではない。1と身体がある。[Mais cet Un n'est pas le corps. Il y a le Un et le corps. ](Hélène Bonnaud, Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse ,2013)
「1と身体がある Il y a le Un et le corps」とあるが、この身体の出来事としての固着が臨床的には核心である(Σ=固着である)。
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。la jouissance est un événement de corps […]la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
後期ラカンの核心はフロイトの固着である。固着とは身体的なものが心的なものに翻訳されずエスのなかに居残るということである。
簡易版「原抑圧=超自我=死の欲動」 |
固着とはくりかえせば現実界的な去勢である、--「要するに、去勢以外の真理はない。En somme, il n'y a de vrai que la castration 」 (Lacan, S24, 15 Mars 1977)
ここでふたたび現代ラカン派による注釈文をいくつか並べておこう。
幼児期の享楽の固着とあるが、これをフロイトはリビドーの固着(欲動の固着)、あるいはトラウマへの固着とも呼んだ。
上にも記したように、このトラウマへの固着とは、構造的トラウマへの固着だが、それ以外に事故的トラウマへの固着もあり、これが巷間で一般的にいわれるトラウマとその反復強迫である。
そもそもフロイト自身、まず最初に構造的トラウマではなく、第一次世界大戦における外傷性戦争神経症という事故的トラウマの続出に直面するすることにより死の欲動概念を生み出したと言えるかもしれない(もっとも『夢解釈』以前の最初期からヒステリー研究や心理学草稿等で、構造的トラウマに近い思考をしていたということはある)。
ここでふたたび現代ラカン派による注釈文をいくつか並べておこう。
症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)
疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III,12/03/2008)
享楽の固着とそのトラウマ的作用がある。 fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018)
フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
幼児期の享楽の固着とあるが、これをフロイトはリビドーの固着(欲動の固着)、あるいはトラウマへの固着とも呼んだ。
幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
幼児期のトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これはトラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
上にも記したように、このトラウマへの固着とは、構造的トラウマへの固着だが、それ以外に事故的トラウマへの固着もあり、これが巷間で一般的にいわれるトラウマとその反復強迫である。
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)
(心的装置による)拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)
そもそもフロイト自身、まず最初に構造的トラウマではなく、第一次世界大戦における外傷性戦争神経症という事故的トラウマの続出に直面するすることにより死の欲動概念を生み出したと言えるかもしれない(もっとも『夢解釈』以前の最初期からヒステリー研究や心理学草稿等で、構造的トラウマに近い思考をしていたということはある)。
フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)