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2019年12月11日水曜日

それは逆だよ

ああ、それは逆だよ。

純愛に必要なものは距離である。 身近にいる限り倦怠を募らせるしかない女性を、 誠実に、永遠に、みのり豊かに愛し続けるには、その不在の影と戯れねばならない。残された一ふさの髪の毛で結ばれている母親との間には時間的な距離が拡がっているが、では、純愛を捧げるべき恋人との間には、いかなる距離を介在させることが可能か。すぐさま予想されるとおり、空間的な距離、つまりは地理的な拡がりがあればそれで充分だ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

蓮實よりもさらにいっそうシニカルなポーはこう言っている。

美しい女の死は、疑問の余地なく、世界でもっとも詩的な主題である。──そして、そのような主題を語るのにもっともふさわしい唇が、後に残された恋人の唇であることもまた、同様に疑いを容れない事実である。

the death[…]of a beautiful woman is, unquestionably, the most poetical topic in the world — and equally is it beyond doubt that the lips best suited for such topic are those of a bereaved lover.(エドガー・アラン・ポー「構成の哲学 THE PHILOSOPHY OF COMPOSITION」1846年)

ーー永遠の女になる最も近道は死ぬことだな。

ま、もちろんジョークだ、シナナイタメニが肝心だよ、

40歳まで生きたポーは、その不幸な生涯のどん底から「この世で到達可能な幸福」の四条件として「困難であるが不可能でない努力目標」「野心の徹底的軽蔑」「愛するに足る人の愛」「野外での自由な身体運動」の四つを挙げている。

ポーの時代の40歳ってのはいまでいえば60歳だよ

なにはともあれ一瞬よりはいくらか長く続く間の光景を獲得できるあいだは生き続けることさ

自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮かぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか?(大江健三郎『燃えあがる緑の木』第一部)

「一瞬よりはいくらか長く続く間の光景」ってのは準備していたら絶対訪れない。これがプルーストがくりかえし書いていることだ。あるいは遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってこないとこの感覚は得られない。


まえぶれがやってきて、われわれを救ってくれるのは、ときには、すべてが失われたと思われる瞬間にである、人はすべての扉をたたいた、どの扉もどこにも通じない、ただ一つ人がはいることのできる扉、百年かかってさがし求めても空しかったであろうただ一つの扉に、それとは知らず突きあたる、するとそれはひらくのだ。…

長らくゲルマント大公に仕えている一人の給仕人頭が、私だということを知って、私が通されている図書室に、私がビュッフェまで行かなくてもいいように、プチ・フールのとりあわせと一杯のオレンジエードとももってきたので、私は彼がわたしてくれたナプキンで口を拭いたのだ、ところがそのとたんに、あたかも『千一夜』の人物が、自分をただちに遠くへはこんできれる素直な魔神〔ジェニー〕を自分だけの目に見えるように出現させる、まさにそのような儀式をそうとは知らずにやってのけたかのように、コバルト・ブルーの新しい視像が、ちらと私の目のまえを通りすぎた。

しかし、そのコバルト・ブルーは、自然の純粋さをたたえ、潮気をふくんで、さっと青味がかった乳房の形にふくらんだ。そしてその印象は非常に強くて、私がかつて生きていた瞬間が、現時点であるように思われた。私は、自分がほんとうにゲルマント大公夫人にむかえられようとしているのか、それともすべてがくずれさろうとしているのではなかろうか、と自問していた昔のあの日以上に茫然としながら、その召使がたったいま浜辺に面した窓をあけたような気がし、満潮の防波堤におりてそこを散歩するようにすべてが私をさそっているような気がするのだった。

口を拭くために私が手にとったナプキンは、バルベック到着の第一日目に、窓のまえで、あのように拭きにくかったナプキンの、あのかたく糊がついてのとおなじ種類のものであった。そしていま、ゲルマントの図書室の書架をまえにして、ひらいた面と折目にわかれたそのナプキンは、孔雀の尾のように、グリーンとブルーの海原の羽をひろげているのであった。それに私は、単にそんな色彩だけをたのしんでいるのではなくて、その色彩を浮きあがらせている、私の過去の生活のまったき一瞬をたのしんでいるのであって、その一瞬こそは、まぎれもなくそれらの色彩への私の渇望そのものであったのだが、バルベックでは、何か疲労感または悲哀の感情といったものが、その一瞬をたのしむことをおそらく私にさまたげたのであろう、そしていまや、その一瞬が、外的知覚にふくまれる不完全な要素をとりさり、肉体を離れ、純粋になって、私を大歓喜でふくれあがらせたのであった。(プルースト「見出された時」)

ようするにどこにでも落ちているよ、「一瞬よりはいくらか長く続く間の光景」はね。もし人が思いつめてあの扉を閉じてしまわなければ。