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2019年12月24日火曜日

告白の歌

隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すことを、あるいは「内面」を作り出すのである。(柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』)




〈「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を擁きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり〉(「マタイ伝」)。

ここには恐るべき転倒がある。姦淫するなというのはユダヤ教ばかりでなくどの宗教にもある戒律であるが、姦淫という「事」ではなく「心」を問題にしたところに、キリスト教の比類のない倒錯性がある。もしこのような意識をもてば、たえず色情を看視しているようなものである。彼らはいつも「内面」を注視しなければならない。「内面」にここからか湧いてくる色情を見つづけなばならない。しかし、「内面」こそそのような注視によって存在させられたのである。さらに重要なことは、それによって「肉体」が、あるいは「性」が見出されたということである。(柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』)




キリスト教の悔悛から今日に至るまで、性は告白の特権的な題材であった。それは、人が隠すもの、と言われている。ところが、もし万が一、それが反対に、全く特別な仕方で人が告白するものであるとしたら? それを隠さねばならぬという義務が、ひょっとして、それを告白しなければならぬという義務のもう一つの様相だとしたなら? (告白がより重大であり、より厳密な儀式を要求し、より決定的な効果を約束するものであるならば、いよいよ巧妙に、より細心の注意を払って、それを秘密にしておくことになる。)もし性が、我々の社会においては、今やすでに幾世紀にもわたって、告白の誤つことなき支配体制のもとに置かれているものであるとしたら? (フーコー『性の歴史』)




フェラチオ(ペニスを吸うSaugen am Penis)という倒錯的幻想は、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸う[Saugen an der Mutter- oder Ammenbrust」という、先史的ともいえる幻想の改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる乳幼児との出会いでふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象Mittelvorstellung zwischen Brustwarze und Penis として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)