愛される者は、ひとつのシーニュ、《魂》として現れる。 L'être aimé apparaît comme un signe, une « âme»(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964年)
……
これからあなた宛に日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の粋に達したかどうか―――そういうことはわたしには一切判りません。ただわたしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくともわたしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたしのよろこびは自分の縁の遠い、孤独のままでとどまるだろうということを感じるばかりです。それで、わたしは書き始めます。そして、かつて、あなたこそわたくしが優しい願いで自分を準備したその成就であることをまだ知らずに、そこはかとない同じ郷愁にかれれていたその日々をまる一年の歳月が隔てる今日この頃になって、わたしの欲望のあかしをすることができる萌しが出て来たことを喜んで承認します。(リルケ、サロメ宛、1898年4月15日『フィレンツェ日記』)
昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』1910年)
オルフォイスに寄せるソネット 第2部8 高安国世訳
都会のあちこちに 放心したように存在する庭の中で
かつて遊び合った子供の頃の数少ない友らよ、
私たちはふと互いに見交わして、それからおずおずと
好意を感じ合い、話をする巻物をくわえた子羊のように
黙ったまま話し合ったものだった。うれしさがこみ上げてくることがあっても
それは誰のものでもなかった。誰のものだったのだろう?
それはいつの間にか、そこらを歩き廻る大人たちの間で消えてしまい、
長い月日の不安の中で失われてしまった。
馬車はごろごろと意味もなく私たちの周囲を走り、
家々は私たちを囲んで物々しく立っていた、が少しも真実味がなかったーー
そしてどの家もついぞ私たちを知らなかった。あの頃世界に何が一体真実だったろう?
何物も。ただボールだけがそうだった。彼らの描く輝かしい弧だけが。
子供たちもだめだった……ただ時々、ふと
誰かが、ああ、はかない一人の子供が、その落ちてくるボールの下に立つのだった。
ドゥイノエレギー 1 古井由吉訳
それでも憧憬の念の止まぬものなら、愛を生きた女たちのことを歌うがよい。かの女たちの名高き心はひさしくなお十分の不死の誉れを得てはいない。男に去られながら、渇きを癒された者よりもはるかに多くを愛したあの女たちを見れば、お前は妬まんばかりになるはずだ。けっして十全な称賛とはなりきらぬ称賛を、繰り返し新たに始めよ。考えてみるがよい。英雄はおのれを保つ。滅びすら彼にとっては生きながらえるための口実にほかならず、じつは究極の誕生にひとしい。しかし愛の女たちは究め尽くした宿命を、内へ納め戻す。あたかも二度と、これを為し遂げる力も尽きたかのように。
Sehnt es dich aber, so singe die Liebenden; lange noch nicht unsterblich genug ist ihr berühmtes Gefühl. Jene, du neidest sie fast, Verlassenen, die du so viel liebender fandst als die Gestillten. Beginn immer von neuem die nie zu erreichende Preisung; denk: es erhält sich der Held, selbst der Untergang war ihm nur ein Vorwand, zu sein: seine letzte Geburt. Aber die Liebenden nimmt die erschöpfte Natur in sich zurück, als wären nicht zweimal die Kräfte, dieses zu leisten.
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面です。
Der Tod ist die uns abgekehrte, von uns unbeschienene Seite des Lebens(リルケ「リルケ書簡 Rainer Maria Rilke, Brief an Witold von Hulewicz vom 13. November 1925ーードゥイノの悲歌をめぐる)
墓碑銘、リルケ
薔薇よ、おお、きよらかな矛盾よ
あまたの瞼のしたで、だれの眠りでもないという
悦楽よ
Die Grabschrift、Rilke
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
soviel Lidern.
………
悦楽は現実界である。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
死への道は、悦楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、その不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregung から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
………
ニーチェ、フロイト、ラカンをつなぐ鍵言葉のひとつは lust である。わたくしはこの語をときに折口の「乞ひ=恋」もしくは「魂乞ひ」の相似語とみなしたくなる。ここに上に引用したリルケの墓碑銘のlustを介入させてもよい。
Libido, Hunger, Lust, Liebe(リビドー 、飢え、乞い、恋)
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人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
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『性欲論』1910年注:ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求Bedürfnisses(乞い)の感覚と同時に満足Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。
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リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。
Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann.(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
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Schmerzlust=jouissance
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マゾヒズムの根には、苦痛のなかの悦Schmerzlustがある。(フロイト 『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
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フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »(ラカン, S16, 15 Janvier 1969)
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フロイトのーlibido=ニーチェのLust=ラカンのjouissance
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悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。―― - _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)
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私が享楽と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張・強制・消費・搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れる始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(Lacan,Psychanalyse et medecine,1966)
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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折口の魂乞ひ
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こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。
こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)
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こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)
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ーーSchmerzlust=jouissance=マゾヒズムとあるが、フロイトにとって原マゾヒズムは自己破壊欲動であり、死の欲動である。
魂を迎えるとは、究極的には死でありうる。
■ニーチェにおける「永遠回帰・悦楽回帰」の核心的表現のいくつか
ーーもっとも名高い『悦ばしき知』341番は長いので、《あらゆる苦痛、あらゆる悦楽 jeder Schmerz und jede Lust 、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない》のみを先に掲げておこう。
永遠回帰・悦楽回帰
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ああ、どうして私は永遠を求める激しい渇望に燃えずにいられよう? 指輪のなかの指輪である婚姻の指輪を、ーーあの回帰の輪を求める激しい渇望に!
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Oh wie sollte ich nicht nach der Ewigkeit brünstig sein und nach dem hochzeitlichen Ring der Ringe, - dem Ring de Wiederkunft!
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私はまだ自分の子供を産ませたいと思う女に出会ったことがないーーだが、ただ一人私が愛し、その子供が欲しい女がここにいる。おお、永遠よ!私はおまえを愛している。
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Nie noch fand ich das Weib, von dem ich Kinder mochte, sei denn dieses Weib, das ich lieb: denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!
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私はおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ!
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Denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」第6節)
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おまえ、葡萄の木よ。なぜおまえはわたしを讃えるのか。わたしはおまえを切ったのに。わたしは残酷だ、おまえは血を噴いているーー。おまえがわたしの酔いしれた残酷さを褒めるのは、どういうつもりだ。
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Du Weinstock! Was preisest du mich? Ich schnitt dich doch! Ich bin grausam, du blutest -: was will dein Lob meiner trunkenen Grausamkeit?
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「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!」そうおまえは語る。だから葡萄を摘む鋏はしあわせだ。それに反して、成熟に達しないものはみな、生きようとする。いたましいことだ。
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"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" so redest du. Gesegnet, gesegnet sei das Winzermesser! Aber alles Unreife will leben: wehe!
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苦痛は語る、「過ぎ行け、去れ、おまえ、苦痛よ」と。しかし、苦悩するいっさいのものは、生きようとずる。成熟して、悦楽を知り、あこがれるために。
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Weh spricht: "Vergeh! Weg, du Wehe!" Aber Alles, was leidet, will leben, dass es reif werde und lustig und sehnsüchtig,
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ーーすなわち、より遠いもの、より高いもの、より明るいものをあこがれるために。「わたしは相続者を欲する」苦悩するすべてのものは、そう語る。「わたしは子どもたちを欲する、わたしが欲するのはわたし自身ではない」と。ーー
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- sehnsüchtig nach Fernerem, Höherem, Hellerem. "Ich will Erben, so spricht Alles, was leidet, ich will Kinder, ich will nicht _mich_," -
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しかし、悦楽は相続者を欲しない、子どもたちを欲しない、ーー悦楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同ーだ。
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Lust aber will nicht Erben, nicht Kinder, - Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
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苦痛は言う。「心臓よ、裂けよ、血を噴け。足よ、さすらえ。翼よ、飛べ。痛みよ、高みへ、上へ」と。おお、わたしの古いなじみの心臓よ、それもいい、そうするがいい。痛みはいうのだ、「去れよ」と。
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Weh spricht: "Brich, blute, Herz! Wandle, Bein! Flügel, flieg! Hinan! Hinauf! Schmerz!" Wohlan! Wohlauf! Oh mein altes Herz: Weh spricht: "vergeh!"
(第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第9節)
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おまえたちは、かつて悦楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。
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Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -
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……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――
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- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年)
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悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
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_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)
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おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!」
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Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«
(Friedrich Nietzsche , Also sprach Zarathustra , Das Nachtwandler-Lied , 酔歌、第12節)
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生の永遠回帰・永遠の悦楽
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何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus 。総体としてに真の生である。生殖を通した生、セクシャリティの神秘を通した生である。
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛 Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の悦楽 ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志 Wille zum Leben がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能tiefste Instinkt des Lebens が、生の未来への、生の永遠性 Ewigkeit des Lebens への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
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種こそすべて
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十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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リルケはドゥイノでは、LUSTという語を次のように使っている。
リルケ、ドゥイノエレギー、第三歌より
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愛するものを歌うのはよい。しかし、あの底ふかくかくれ棲む罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。恋する乙女が遥かから見わけるいとしいもの、かの若者みずからは、その悦楽の王について何を知ろう。…
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EINES ist, die Geliebte zu singen. Ein anderes, wehe, jenen verborgenen schuldigen Fluß-Gott des Bluts. Den sie von weitem erkennt, ihren Jüngling, was weiß er selbst von dem Herren der Lust,
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聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。星々よ、いとしい恋人への彼の乞いは、あなたから来るのではなかったか。…
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Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt. Ihr Sterne, stammt nicht von euch des Liebenden Lust zu dem Antlitz seiner Geliebten
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朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか。まことにあなたによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからの恐怖がこの感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできない。
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Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? Zwar du erschrakst ihm das Herz; doch ältere Schrecken stürzten in ihn bei dem berührenden Anstoß. Ruf ihn . . . du rufst ihn nicht ganz aus dunkelem Umgang.
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年ーー海は夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる)
ルー・アンドレアス・サロメは、1915年1月10日、直前に発表された『ナルシシズム入門』への応答としてフロイト宛に書信を送っている。…
《これはセクシュアリティの主要な問題なのではないでしょうか。セクシュアリティは、渇望を癒やしたいというよりも、むしろ渇望自体を切望することから構成されているのですね? 身体的緊張の解放と満足に到った状態は、同時に失望ということですね? というのは、緊張と渇望が減ってしまうのですから。》 (Freud-L. A. Salome, Brie fwechsel)
……サロメは、フロイトの快原理の議論の欠陥を明示し、新しい解決法に向かうよう促している。セクシュアリティは 「Durstsehnsucht 渇きへの欲望」であり、欲望自体への欲望であって、欲望の満足ではない。緊張の蓄積は快感でありうる。緊張の放出は失望をもたらす。快原理はよろめき始めた。フロイトはこの単純な見解を彼の理論のなかに反映させるために、5年を要した(『快原理の彼岸』1920年)。それは彼の以前の考え方すべての修正を余儀なくさせた。(ポール・バーハウ、DOES THE WOMAN EXIST?、1999年)