われわれは、純粋な死の欲動や純粋な生の欲動 reinen Todes- und Lebenstriebenを仮定すべきではない。そうではなく、この二欲動の種々なる混淆 Vermischungと結合 Verquickung のみがある。この欲動混淆Triebvermischungは、ある種の作用の下では、ふたたび脱混淆 Entmischungすることもありうる。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
ここでフロイトはエロスとタナトスの欲動混淆スペクトラムを言っている。
ーーひどく単純化した図だが、基本的には人間の性格類型はここにある。
ーーここでのフロイトの語彙群の矛盾(左項に死の欲動、右項にタナトス)についてはすでに何度も触れたので、ここでそれについて記述することはしない。
上の図の語彙群のなかで、たとえばフロイトにとって男性性/女性性とは、ファルスの有無という男性/女性ではないことに注意しなければならない。
人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない。個々の人間はすべてどちらかといえば、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆 Vermengung をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との合一をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』1905年)
そしてマゾヒズム/サディズムについては、1920年以降のフロイトにとってーー1919年の『子供が叩かれる』までは逆に考えていたーーマゾヒズムがサディズムに先行してある。
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!(…)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
次の1924年の文は表現的にはやや曖昧なままだが、これは上の1933年の決定的記述とともに読めば、上のように図示できる。
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズム Masochismus と一致するといってさしかえない。…ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動 projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb がふたたび取り入れられ introjiziert 内部に向け換えられうる。…この退行が起これば、二次的マゾヒズム sekundären Masochismus が生み出され、原初的 ursprünglichen マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
原マゾヒズムが先行してあるということは、サディスト人格とみえる人物でも、マゾヒスト的自己破壊欲動に苛まれての外部への投射としてのサディストである可能性が高い、ということになる。ーー《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年)
享楽への意志 la volonté de jouissanceは、モントルイユ夫人によって容赦なく行使された道徳的拘束のうちへと引き継がれることによって、その本性がもはや疑いえないものとなる。(ラカン, Kant ·avec Sade, E778, Avril 1963)
大他者の享楽の対象になること être l'objet d'une jouissance de l'Autre、すなわち享楽への意志 volonté de jouissance が、マゾヒスト masochiste の幻想 fantasmeである。(ラカン、S10, 6 Mars 1963)
マルキ・ド・サドは、他者に苦しみをもたらしたと伝えられるが、半生涯を刑務所で過ごした。そしてマルキ・ド・サドの秘密はマゾヒズムであるとラカンは強調している。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
サド書簡モントルイユ夫人宛
これ以上はっきり申し上げられるでしょうか、マダム? 私の胸の裡をこれ以上はっきりお聞かせできるでしょうか? どうかお願いですから、私のおかれた状態を少しは憐れんでください! 恐ろしい状態なのです。そう申し上げることで私があなたを勝利者にしてしまうことくらい承知しています。しかしもうそんなことはかまいません。私はあまりにも不運なやりかたであなたのお心の平安を乱してしまったがために、マダム、私の犠牲であなたに勝利をご提供致すはめになったことを悔やむ気にすらなれないのです。あなたはご自分の力を尽くして、ひとりの人間が蒙りうる最高度の辱めと、絶望と、不幸とに私が見舞われるのをご覧になろうとしたわけですから、どうぞご享楽jouirください、マダム、さあどうぞ、なぜならあなたは目標を達せられたのですから。私はあえて申しますが、人生を私ほど重荷に感じている存在はこの世にひとりたりともおりません。 (サド「モントルイユ夫人宛書簡」1783 年 9 月 2 日付)
ーーこのあたりは、フロイトラカンにおいて、ドゥルーズの『マゾッホとサド』の捉え方とは大きく異なる面である。
ドゥルーズのマゾッホ論には「制度的 institutionnel サド/契約的 contractuel マゾ」、「サディズムにおける超自我と同一化 Surmoi et identification/マゾヒズムにおける自我と理想化 Moi et idéalisation」「サドの量的繰り返し Réitération quantitative/マゾの質的な宙吊り Suspens qualitatif 」等とある。
象徴界(+想像界)のレベルではドゥルーズのいうようなことがある程度当てはまるだろうが、現実界まで顧慮すればフロイトラカンが正しいと言わざるをえない。そもそもドゥルーズは「超自我=自我理想」とあつかって論をすすめており、現在ラカン派観点からは、これは(フロイトの記述の曖昧さ、かつ当時のことだからやむえないとはいえ)明らかなフロイトの超自我の誤読である(参照1、参照2)。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
欲望は享楽に対する防衛である le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller L'économie de la jouissance、2011)
次の図の語彙群の右項が底部であり、左項が上部である。
……
さてフロイト1905の「人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋の男性または女性 reine Männlichkeit oder Weiblichkeit は見出されない」に戻ろう。
この考え方は、フロイトに先立ってオットー・ヴァイニンガー Otto Weininger が『性と性格 Geschlecht und Charakter』(1903年6月)にて示している。彼はこの書の上梓後に23歳で自死した(1903年10月4日)。
ヴァイニンガーは最近はあまり知られていないようだが、カフカやウィトゲンシュタイン等に大きな影響を与えており、日本でもこの書の考え方が一時的に流行した。
たとえば鴎外は小説のなかでこう記している。
「…君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto Weininger というのだ。僕なんぞはニイチェから後の書物では、あの人の書いたものに一番ひどく動されたと云っても好いが、あれがこう云う議論をしていますね。どの男でも幾分か女の要素を持っているように、どの女でも幾分か男の要素を持っている。個人は皆M+Wだというのさ。そして女のえらいのはMの比例数が大きいのだそうだ」
「そんなら詠子さんはMを余程沢山持っているのでしょう」と云いながら、純一は自分には大分Wがありそうだと思って、いやな心持がした。(森鷗外『青年』1911年)
ーーこの『青年』では、しつこく何度もヴァイニンガー(ワイニンゲル)の名が出現する。
西田幾多郎、谷崎潤一郎、萩原朔太郎も並べておこう。
プラトーの『シムポジューム』の中に、元は男女が一体であったのが、神に由って分割されたので、今に及んで男女が相慕うのであるという話がある。これはよほど面白い考である。人類という典型より見たならば、個人的男女は完全なる人でない、男女を合した者が完全なる一人である。オットー・ヴァイニンゲルが「人間は肉体においても精神においても男性的要素と女性的要素との結合より成った者である、両性の相愛するのはこの二つの要素が合して完全なる人間となる為である」といっている。男子の性格が人類の完全なる典型でないように、女子の性格も完全なる典型ではあるまい。男女の両性が相補うて完全なる人格の発展ができるのである。(西田幾多郎『善の研究』1911年)
ワイニンゲルの説くが如く、世の中に完全なる男子や完全なる女子が存在して居ないとすれば、従つて世間の男女の間に絶対的差別がないとすれば、此の理屈を或る一個人の心理作用にも応用することは出来るであらう。幸吉はどうかすると、自分が全然女のやうな感情に支配される時がある事を発見した。其時の彼は実際女になつて了つて居るのだ。(谷崎潤一郎「捨てられる迄」1914年)
ワイニンゲルの説く如く、男女の科学的な性的区別は、決してその単なる見かけや、生殖器の外部的形態にあるのではない。実際、問題としての男女の区別は、もつと遥かに複雑であり、性格の内部に於ける傾向や気質やの、微妙な内奥的実質に存するのである。(…)例ヘば今我々は、単に或る表象を有するといふ理由を以て、生まれてすぐ「男」として認定された。そして男として名前づけられ、男として教育され、男としては兵役の義務を強制された。(萩原朔太郎「虚妄の正義」1929年)
最後にこう言っておこう、フロイトラカン理論というのは、「自分が全然女のやうな感情に支配される時がある」人物の注釈じゃないと、たんにオベンキョウ効果しかないよ。核心には触れえないね、あれら「教師S2ー生徒a」というの大学人の言説に終始している学者たちの解釈では。
教師の言説とは中立を見せかけた(semblant)、支配欲S1の言説なんだから。よほどナイーブな生徒=受け手(読み手)以外は、生産物として欲求不満$が生じて永遠の循環運動をするだけだ。
ーーま、いまボクがこう記している記述も事実上、大学人の言説=知の言説なんだけどさ、ボクの本来はヒステリーの言説さ、とはいえ実際はラカン版のヒステリーの言説とは異なり、その真の変種としての蚊居肢版ヒステリーの言説だ。
分析家の言説というのはブログではほとんど不可能だからな。
分析の言説とは知を隠蔽してシステムの穴として欲望の主体に直面する言説です。そして新しい主体が生まれるのです(蚊居肢子は、ニーチェやプルースト、バルトを読むことによりすでに何度も新しい主体になっています)。
文才のあるかたはぜひバルトのように書いてください、デリダではぜんぜんダメです(デリダはみずからの脱構築文体自体を脱構築できなかったという理由で徹底的な形而上学者(S1よくてもS2の言説)です)。フーコー、ドゥルーズなんてのも(ときたまいいときがあるだけで)基本的にはダメです。バディウなんてのは終始、大学人の言説だと親友ジジェクが馬鹿にしていますーージジェクは、バディウとちがって「ボクはヒステリーの言説だ」と2016年に宣言しています(たぶん巷間のオベンキョウ家たちがバディウを好んでジジェクをないがしろにするのに苛立った挑発だと思いますが)。
なにはともあれ20世紀後半はバルトとともにあります。
作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)
ここでついでに言っておけば、教師だけならまだしも副業でカルチャーセンターなんかで常時喋ってる若いのがいるんだろ? ウワッスベリの注釈書だして、あとは底部に隠蔽している支配欲に専念ってわけかね。最悪だな、なんでラカン派であんなやつがいるんだろ、知的銃殺刑の対象だな。
学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)
ああいうやつをみると、シュルレアリストの気分になるね。
最も単純なシュルレアリスト的行為は、リボルバー片手に街に飛び出し、無差別に群衆を撃ちまくる事だ。L'acte surréaliste le plus simple consiste, revolvers aux poings, à descendre dans la rue et à tirer au hasard, tant qu'on peut, dans la foule.(アンドレ・ブルトン André Breton, Second manifeste du surréalisme)
わかるかい、これが(カイエ版ではなく)ラカン版のヒステリーの言説ってヤツさ、ちょっと試してみたよ。人は最低限、ひとつの言説からもうひとつの言説に移行しなくちゃいけないからな、--「愛は言説の横断の徴であるl'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours」 (Lacan, S20, 19 Décembre 1972)
ま、専門家ってのはな、敬愛してもいいよ
プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』1988年)
ーーでもこういうわけだな、せめとときには女にならなくっちゃな、専門家のみなさんよ!
中井)……あの、診察している時、自分の男性性というのは消えますね。上手にいっているときは。ほんものの女性性が出るかどうかはわかりませんけど、やや自分の中の女性性寄りです。少なくとも統合失調症といわれている患者さんを診るときはそうですね。
鷲田)自分からそれは脱落していくのですか。
中井)いや、機能しない。まあ統合失調症の人を診た直後に非行少年かなんかを診たらもう全然だめなんです。カモられてしまう。(「身体の多重性」をめぐる対談 中井久夫/鷲田清一 2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
あるいはひとはバルトのいうようにアマチュア=アマトゥール(愛する人)にならなくっちゃな。
最後におことわりしておけば、蚊居肢子はすこぶる平和的な人間で根源的マゾヒストです。ときに罵倒言説があるのは、自己破壊欲動の投射としての天秤の皿機能の顕れにすぎません。
Hör’ ich das Liedchen klingen,
Das einst die Liebste sang,
Will mir das Herz zerspringen
Vor wildem Schmerzensdrang.
Mich treibt ein dunkles Sehnen
Hinauf zur Waldeshöh,
Dort löst sich auf in Tränen
Mein übergroßes Weh.
あの歌が鳴り響くのを聞くと
かつて恋人が歌ってくれた歌を
ぼくの心は張り裂けそうになる
激しい痛みに
ぼくを連れ去るのだ その暗い想いは
森の丘のてっぺんへと
そこで吐き出すのだ 涙にくれながら
ぼくの耐え難いこの苦しみを
ーーハイネ HEINRICH HEINE, ich das Liedchen klingen (Schumann Dichterliebe No 10)
私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本―――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう―――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)
愛する人である蚊居肢子は敵から直接的に不正を加えられたわけではありませんが、誤謬だらけの啓蒙書がデフォルトになってしまっている日本的言語環境では、エロスやら享楽やらを書くのにひどく手間取ってしまうのです。これを間接的な不正と呼びます。したがって、敵のホントの絞首刑は必要ありません。いままでの書き物を「全否定?」するだけで許します。知的絞首刑でよろしい。おわかりでしょうか?