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2019年12月30日月曜日

ラディカル衆愚政治のために

◼️ある元事務次官との会話~「日銀の出口戦略」 長谷川高、2019年12月30日

 「私は、最近、黒田さんは、太平洋戦争勃発時の山本五十六長官に例えている。山本長官は、当初からまずは奇襲線を挑み、早期に終戦条約を締結し、戦争を終了させるしか日本が生き残る方法はないといった戦略だった。しかし、当時の政府や軍は、本土を空襲され、原爆を落とされ徹底的に破壊されるまで戦争を終結することができなかった。

黒田さん及びその周りの取り巻きも、当初、ほんの数年で、つまり短期で一連の政策を終わらせる予定だった。私も現役時代そう聴いていた。しかし、結果が出ず、途中でやめるわけにはいかなくなってしまった。今後は、太平洋戦争時代の政府と同じように行くところまで突き進むのだろう。」

「正義の味方」のみなさんは、これが元財務事務次官の寝言なのか、あるいは「まともな」経済学者たちの事実上のコンセンサスに近いのか否かぐらいはまずオベンキョウして判断してみることだな、「考える自由」をもつために。

知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)

ほかの選択肢は「令和の徳政令」のたぐいだったらあるだろうがね、それと「僥倖的」経済成長を夢見ることだなーー生産年齢人口1%弱減っていく国で、2%超の継続的経済成長を期待するというほとんどあり得ない夢をねーー、そう、どこかのポピュリズム左翼政党の連中みたいに(でも驚異的な技術革新があって驚異的に生産性があがったら可能だよ)。

実際のところは無難なインフレ期待しかないんじゃないかな(インフレの場合、一番の問題はほとんど必然的な金利上昇をどう処理するかだけれど。つまり成長による税収増より公債金利負担増のほうが多くなるという逆ザヤ現象が経済学者たちのあいだで予測されている)。

でもハイパーインフレだったらスッキリしていいかもな。

次のはいくらか極論だが掲げておこう。

ハイパーインフレは、国債という国の株式を無価値にすることで、これまでの財政赤字を一挙に清算する、究極の財政再建策でもある。

予期しないインフレは、実体経済へのマイナスの影響が小さい、効率的資本課税とされる。ハイパーインフレにもそれが当てはまるかどうかはともかく、大した金融資産を持たない大多数の庶民にとっては、大増税を通じた財政再建よりも望ましい可能性がある。(本当に国は「借金」があるのか/福井義高 2019.02.03)

ーーこの福井義高氏は、もはや日本の財政破綻は必然なのだから、悠長な現状分析はやめて財政破綻後の日本を考えようとする趣旨をもった「「財政破綻後の日本経済の姿」に関する研究会」ーー代表:井堀利宏(東京大学大学院経済学研究科教授)、貝塚啓明(東京大学名誉教授)、三輪芳朗(大阪学院大学教授・東京大学名誉教授)ーーのメンバーのひとりだった(現在も存続しているか否かは不詳)。

でもハイパーインフレは「大した金融資産を持たない大多数の庶民」にとっては望ましいかもしれないけど、金持ちというよりそれなりにまじめに貯金して頑張っている中流階級が悲惨なんじゃないかな、それとやっぱりたいした資産のない高齢者が。

でも「若く貯金のない庶民のみなさん」のためにはたぶん最高の政策だよ、きっと。健康で機敏だったらボロ儲けできるさ。闇市時代みたいにね。

小泉進次郎だってとっくのむかしから言っているらしいよ。

消費税増税法案が閣議決定された(2012年)3月30日、国会内で自民党の小泉進次郎代議士はこう述べた。「若い人にもデフォルト待望論がある。財政破綻を迎え、ゼロからはじめたほうが、自分たちの世代にとってはプラスだという議論が出ている」(資産も職もない若者はデフォルト待望 「みんなが不幸になり、既得権益が一掃されることを願う」


ま、たとえばこういった言説に対抗するためにも、そしてすこしでも「知識人」として振る舞いたければ、ツイッター社交界の政治好きのあの連中のように似非能動性ばかりやってないで、ひきこもって考えてみることだよ、

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)

ーーツイッター10日ぐらいやめて正月のあいだお勉強したら「マヌケじゃなかったら」なんとかなるよ。マヌケを自認してんだったらやめといたらいいさ。

話をいくらか変えよう。

むかしヘーゲルはこういったらしい。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

で、柄谷は次の文の前段でカール・シュミットに触れつつこう言っている。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

もう一つ付け加えておこうか。

人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

 ーーおい、行政官僚に操られているだけだってよ、大衆は。オコレよ、柄谷に。


ま、でもこの柄谷じゃなく「常識的には」現在日本は端的にジジェクのこれだな。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

「今決断は本当に大衆にある」としても、おバカな大衆じゃだめだよ。いくらなんでもすこしは勉強しないとな。衆愚政治におちいらないためにね。

我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい」(ツキジデス『戦史』)


ま、でも結局、衆愚政治になっちまうんだろうよ、みんなオベンキョウなんかしたくないからな。

大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。

これには忍耐が要るが、大衆は、彼が忍耐しているとは受け取らぬ。そこに敵に対して一歩も譲らぬ不屈の精神を読みとってくれる。紋切型を嫌い、新奇を追うのは、知識階級のロマンチックな趣味を出ない。彼らは論戦を好むが、戦術を知らない。論戦に勝つには、一方的な主張の正しさばかりを論じ通す事だ。これは鉄則である。押しまくられた連中は、必ず自分等の論理は薄弱ではなかったか、と思いたがるものだ。討論に、唯一の理性などという無用なものを持ち出してみよう。討論には果てしがない事が直ぐわかるだろう。だから、人々は、合議し、会議し、投票し、多数決という人間の意志を欠いた反故を得ているのだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)

ーーいやあじつにうまいまとめだな、ヒトラー「わが闘争」のまとめであると同時に、フロイトの「集団心理学と自我の分析」の秀逸なまとめだよ、これ、→「すぐれた」ポピュリストの手法

ま、でもこれだっていいさ。どうせなにやったって「太平洋戦争時代の政府と同じように行くところまで突き進む」のだったら、僥倖期待の「ラディカル衆愚政治」だってゼンゼンわるくないってことだ。さいきんそうおもうようになったね、こっちのが目的地に近道だろうからな。

ーーいやあシツレイしました。寝言かいちまって。ケッタイな冒頭記事に出会っちまったからな。これが今年最後の投稿です。明日からちょっとした「山ごもり」なんです。