ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
ーー吉岡実「恋する絵」
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すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。(夏目漱石『夢十夜』)
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坂を上つて行く 女の旅人
突然後を向き
なめらかな舌を出した正午
ーー西脇順三郎「鹿門」
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ぼくのすきなもの 女、百合
ぼくのきらいなもの 女、薔薇
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私のすきなもの
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ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ているとき。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉1968年)
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ぼくの好きだったこと
底冷えのする冬の午後
革コートの匂いに包まれたまま
イノダ三条店のカウンターに座り
ダビドフシガリロふかしながら
向かいの気取った女を観察すること
ぼくのきらいもの
アタシには媚びはありませんという女
春雨や人の言葉に嘘多き 吉岡実
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私のすきなもの/私のきらいなもの
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《私の好きなもの J'aime》、サラダ、肉桂、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干草の匂い(どこかの「鼻〔調香師〕」がそんな 香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立場、グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻、ヘンデル、適度の散歩、梨、白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃、桜んぼ、絵具、腕時計、万年筆、ペ ン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、コーヒー、ボロック、ドウンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェルヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、列車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出発するときにたべたセルラーノ[スペイン風のハム]など。
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《私の好きでないもの Je n'aime pas》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラヴサン、ホアン・ミロ、同義語反復、アニメーション映画、アルチュール・ルビンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィ ヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル(古い、きわめて陽気な、輪になっておどるダンス)、ルネッサンス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、 忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。
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《私の好きなもの、好きではないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象 figure d'une énigme corporelleである。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽jouissanceないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。
(一匹の蝿が私に腹を立てさせる、 私はそれを殺す。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蝿を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。)(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
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小柄で痩せたばあさん死んじまったのか
写真はウエブには落ちていない 根津に引越したあと しばらくぶりに女友達同伴で行ったら ばあさんとっても喜んだ |
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たしか去年か一昨年か、詩人の盛大な出版記念会か何かの時、会場にあまりにも《詩人》が多すぎるという入沢さん独特の意地悪な冗談の気分がぴったりで、二次会には参加せず、会場近くの、それこそ平板で平明な照明と外に面した大きなガラス窓のある喫茶店で、入沢さんと吉岡さん、それに私と姉と四人でコーヒーを飲んで雑談をし、吉岡さんとの雑談のなかでは、いつでも「何か最近おもしろい本はない? 教えてよ」という質間を受けることになっているのだが、その時もそう聞かれ、『ロリータ』はむろんお読みでしょうが、ナボコフを最近まとめて読んだと姉が答え、入沢さんは『セバスチャン・ナイトの生涯』は実に面白い小説だったと言い、私たちはそれにうなずき、あれは一種目まいのするような陰惨で滑稽な小説である、と誰かが言うのだが、吉岡さんの反応は違う。
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ナボコフ? ああ、『ロリータ』ね。前に一度読みかけたけれど、あれは訳文がとんでもない悪文だろ?
でも、それをこえちゃって、いかにも詩人でもあった作者の豊かなイマジネーションで出来た言葉の小説で、吉岡さんはお好きだと思う、とまた誰かが答える。すると、詩人は、身を乗り出すようにして眼を大きく見開きーー自分の言葉と言うか、あらゆる開かれた、外の言葉というものに対する貪欲な好奇心をむき出しにする時、この詩人は身を乗り出して眼を大きく見開くのだがーーロリータねえ、うーん、ロリコンってのは今また流行っているんだってね、と言って笑うのだが、吉岡さんとは長いつきあいではあるけれど、いつも、このての、普通の詩人ならば決して口にはしない言葉、ロリコンといったような言葉を平気で使われる時――むろん、私はロリータ・コンプレックスと、きちんと言うたちなのだーーいわば、自分の使い書いている言葉が、ロリコンという言葉の背後に吉岡実の「詩作品」という、そう一つの宇宙として、それを裏切りつつ、しかし言葉の生命を更新させながら、核爆発しているようなショッキングな気分にとらえられる。吉岡実は、いや、吉岡さんはショッキングなことを言う詩人なのだ。
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また別のおり、これは吉岡さんの家のコタツの中で夫人の陽子さんと私の姉も一緒で、食事をした後、さあ、楽にしたほうがいいよ、かあさん、マクラ出して、といい、自分たちのはコタツでゴロ寝をする時の専用のマクラがむろんあるけれど、二人の分もあるからね、と心配することはないんだよとでも言った調子で説明し、陽子さんは、ピンクと白、赤と白の格子柄のマクラを押入れから取り出し、どっちが美恵子で、どっちが久美子にする? 何かちょっとした身のまわりの可愛かったりきれいだったりする小物を選ぶ時、女の人が浮べる軽いしかも真剣な楽し気な戸惑いを浮べ、吉岡さんは、どっちでもいいよ、どっちでもいいよ、とせっかちに、小さな選択について戸惑っている女子供に言い、そしてマクラが全員にいき渡ったそういう場で、そう、「そんなに高くはないけれど、それでも少しは高い値段」の丹念に選ばれた、いかにも吉岡家的な簡素で単純で形の美しいーー吉岡実は少年の頃彫刻家志望でもあったのだし、物の形体と手触りに、いつでもとても鋭敏だし、そうした自らの鋭敏さに対して鋭敏だーー家具や食器に囲まれた部屋で、雑談をし、NHKの大河ドラマ『草燃える』の総集編を見ながら、主人公の北条政子について、「権力は持っていても家庭的には恵まれない人だねえ」といい、手がきの桃と兎の形の可愛いらしい、そんなに高くはないけど気に入ったのを見つけるのに苦労したという湯のみ茶碗で小まめにお茶の葉を入れかえながら何杯もお茶を飲み、さっき食べた鍋料理(わざわざ陽子さんが電車で買いに出かけた鯛の鍋)の時は、おとうふは浮き上がって来たら、ほら、ほら、早くすくわなきゃ駄目だ、ほら、ここ、ほらこっちも浮き上がったよ、と騒ぎ、そんなにあわてなくったって大丈夫よ、うるさがられるわよ、ミイちゃん、と陽子さんにたしなめられつつ、いろいろと気をつかってくださったいかにも東京の下町育ちらしい種類も量も多い食事の後でのそうした雑談のなかで、ふいに、しみじみといった口調で、『僧侶』は人間不信の詩だからねえ、暗い詩だよ、など言ったりするのだ。
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もちろん、たいていの詩人や小説家や批評家はーー私も含めてーー人間不信といった言葉を使ったりはしない。
なぜ、そうした言葉に、いわば通俗的な決まり文句を吉岡さんが口にすることにショックを受けるのかと言えば、それは彫刻的であると同時に、生成する言葉の生命が流動し静止しある時にはピチピチとはねる魚のように輝きもする言葉を書く詩人の口から、そういった陳腐な決り文句や言葉が出て来ることに驚くから、などという単純なことではなく、ロリコンとか人間不信といった言葉、あるいは、権力は持ったけれど家庭的には恵まれなかった、といった言い方の、いわばおそるべき紋切り性、と言うか、むしろ、そうではなくあらゆる言葉の持つ、絶望的なまでの紋切り性が、そこで、残酷に、そしてあくまで平明な相貌をともなう明るさの中で、あばきたてられてしまうからなのだ。吉岡さんは、いつも、それが人工的なものであれ、自然なものであれ、平板で平明な昼の光のなかにいて、言葉で人を傷つける、いや、言葉の残酷さを、あばきたててしまう。(「「肖像」 吉岡実とあう」ーー『現代の詩人「吉岡実」(中央公論社1984)』所収)
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四人の僧侶
畑で種子を播く
中の一人が誤って
子供の臀に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す
ーー吉岡実「四人の僧侶」
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或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をする。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなければ、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。
わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)
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砕かれたもぐらの将軍
首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる
ーー吉岡実「死児」
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