自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)
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真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。
Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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・・・気持ちはわからないことはないよ、ジジェク信者の方にとっては。でも真の愛は信者から逃れることによって初めて始まる。
だいたいジジェクはいくつかのセミネールをのぞいては、それほどラカンを読んでいないようにみえる。初期ジジェクはおおむねミレールのパクリ、ーー《私はきわめて率直に言わなければならない、私のラカンはミレールのラカンだと。I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan》(『ジジェク自身によるジジェク』2004年)。
最近の著書だったら、これこれのラカン文を、ジュパンチッチやらだれやらに教えられたとかしばしば言ってんだから。ジジェクはヘーゲル読んだり政治にかかわったりとっても忙しいんだからしょうがない。
たとえばフェティッシュ。自我がフェティッシュだったら、象徴界だってフェティッシュだよ。ごくごくカンタン版を示しておこう。
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大他者は存在しない
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大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)
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言語は存在しない(象徴界は存在しない)
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象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S25, 10 Janvier 1978)
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私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン, S25, 15 Novembre 1977)
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象徴界は存在しないとは、象徴界は仮象にすぎないということ。
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見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)
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以下、ヴァリエーション。
クリスティヴァはこう言っている(彼女は晩年のラカンの講義に出席していた)。
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言語はフェティッシュである
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言語は、我々の究極的かつ不可分なフェティッシュではないだろうか le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? 。言語はまさにフェティシストの否認を基盤としている(「私はそれを知っている。だが同じものとして扱う」「記号は物ではない。が、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、言語存在の本質 essence d'être parlant としての我々を定義する。その基礎的な地位のため、言語のフェティシズムは、たぶん分析しえない唯一のものである。(ジュリア・クリステヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)
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ようするにクリステヴァの表現の仕方なら「象徴界はフェティッシュ」となる。これは冒頭に掲げたラカンのいくつかの発言の変奏であり、極めて正当的な叙述である。
余談:旦那のソレルス曰く、あんなに頭がいい女は見たことがない。
余談:すごい情熱女(記憶で書いていますから間違っていたらゴメンナサイ)
余余談:「私は、数時間とか、せいぜいとても僅かな間の結婚に賛成なのです。ほとんど誰のためでもないような。」(フィリップ・ソレルスへのインタビュー、2017 年 8 月 28 日、阿部静子)
それ以上続けたら死が待っています。
世界は女たちのものである。
つまり死に属している。
Le monde appartient aux femmes.
C'est-à-dire à la mort.(ソレルス『女たち』)
話を戻して、26歳のニーチェも引用しておこう。
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言語はレトリックである
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言語はレトリックであるDie Sprache ist Rhetorik。なぜなら言語はドクサdoxaのみを伝え、 何らエピステーメepistemeを伝えようとはしないから。(ニーチェ、講義録 Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen, 1871年)
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ニーチェの言い方なら「象徴界はレトリック」となる。
ラカンが唯一あるとするララング(母の言葉)はちょっとムズカシイからここではやめとくよ(参照:ララング定義集)。ま、でもララング lalangue とはなによりもまず「ものとしての言葉」のことで(母親が幼児を世話するときに使う喃語 lallation が起源)ーー現代ラカン派が使用する語なら「言葉の物質性 motérialité」ーー、その代表的なものは音調。
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言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているものどうしのあいだにかけわたされた虹、そして仮象の橋 Schein-Brückenではなかろうか。…
事物 Dingen に名と音調 Namen und Töne が贈られるのは、人間がそれらの事物から喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調 Töneを発してことばを語るということは、美しい狂宴 schöne Narrethe である。それをしながら人間はいっさいの事物の上を舞って行くのだ。 (ニーチェ「快癒しつつある者 Der Genesende」『ツァラトゥストラ』第三部、1885年)
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