2020年1月9日木曜日

デモクラシー信者

よくないのは、「一方に革命があり、もう一方にはファシズムがある」などということを言うということです 。事実、ものごとをいくらか違ったやり方で見ようとすれば、そうしたことを言うことはできません。 (⋯⋯)まったくの善人であったりまったくの悪人であったりするような人は一人もいません。でも人々はいつも、あたかもそうした人がいるかのような考え方をとっています 。(ゴダール『ゴダー ル /映画史Ⅱ』)


ま、ようするにこうだな。クンデラ的に言えばこうだ。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この「あれかこれか」のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』 )


宗教信者、イデオロギー信者はこの立場からいえば最悪だということだ。 それはデモクラシー信者もふくまれる。

イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。. (Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)






例えば経済に弱かったら、けっして三つの環の結び目Σにワズカデモ思いを馳せることはできない。最近の若い政治学者の子供騙しのようなデモクラシー論にどうしたって笑わずにはいられないにはそのせいだ。あれらのなんという限りない陳腐さよ。

享楽、それは絶対的新しさとともにしかやって来ない。新しいことだけが意識を揺るがす(傷つける)(たやすいこと? どんでもない。十中八、九、新しいことは新奇さのステレオタイプでしかないneuf fois sur dix, le nouveau n'est que le stéréotype de la nouveauté)。

ステレオタイプは政治的事実だ。イデオロギーの主要な顔だ。それに対して、「新しいこと」は享楽である(フロイト曰く、《成人においては、新奇さが常に享楽の条件である》)。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

デー・オムニブス・ドゥビタンドゥム!

全てを疑え De omnibus dubitandumマルクス、1865


とはいえ、現代のネオリベ社会においては、こう付け加えておいてもよい。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。お金が相互取引の手段となることを止めたら、人間は他の人間の道具になります。血と鞭と銃、あるいはドルです。あなたがたは選択しなさいーー他の選択肢はありません。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』1957年)
人間は、父親の殺されたのはじきに忘れてしまっても、自分の財産の損失はなかなか忘れないものであるから、とくに他人の持ち物には手をださないようにしなくてはならない。物を奪うための口実は、いくらでも見つかるものである。そのため、ひとたび略奪で暮らすことを味わった者は、他人の物を奪うための口実をつねに見つけるようになる、それに対して、血を流させるような口実は、やたらにさがせるものではなく、すぐ種切れになるものである。(マキャベリ『君主論』1532年)

…………


以下は今まで繰り返して引用してきた「ある観点からの」ーーとしておこう--見解のいくつかである(このたぐいは腐るほど在庫があるのだが)。

民主主義は敵である Democracy is the enemy。……

「現代における究極的な敵に与えられる名称が資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である」というバディウの主張は正しい。「デモクラシー的錯誤」。変化のための唯一の正当な手段としてデモクラシーのメカニズムを受容することこそが、資本家的関係における本物に変革を妨げる。(ジジェク Democracy is the enemy20111028
国民参加という脅威を克服してはじめて、デモクラシーについてじっくり検討することができる。(Noam Chomsky, Necessary Illusions, 1989年)
ファシズムと同様に、ポピュリズムは、たんに資本主義を新しい方法で想像するものにすぎない。ポピュリズムは、その非情な残酷さなき資本主義・社会的な破壊効果なき資本主義を想像する新しい仕方だ。(ジジェク Are liberals and populists just searching for a new master? 2018
民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。(柄谷行人 『〈戦前〉の思考』1994年) 
資本主義社会では、主観的暴力 subjective violence(犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力のゼロ度である「正常」状態を支える「客観的暴力 Objective violence」(システム的暴力 " systemic" violence)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられてる。(ジジェク『暴力』2008年)
資本主義の根源的なシステム的暴力fundamental systemic violence of capitalismは、…ダイレクトな社会的-イデオロギー的暴力socio-ideological violenceに比べ、はるかに不気味なものである。この暴力は実際の個々人や彼らの「悪の」意図にはもはや起因しない。そうではなく純粋に「客観的」・システム的・無名な["objective," systemic, anonymous]暴力である。ここで我々はラカンの現実と現実界とのあいだの区別に出会う。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012年)
M-M' (G─G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)

ーーーこれらは、もしお好きなら、コミュニズム信者の言葉たちと言ってもよろしい。

そして政治学者等において、民主主義信者とコミュニズム信者のあいだの止揚(あるいは否定の否定)がありうるなら、マルクス的知、経済的知が不可欠である、と言っておこう。



止揚Aufheben=二重否定Verneinung=否定の否定Negation der Negation
止揚Aufhebenは真に二重の意味を示す。それは「否定する」と同時に「保存する」の意味である。Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, […]; es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; (ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes1807年)
否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であり、本来は抑圧の解除=止揚Aufhebungを意味しているが、それは勿論、抑圧されているものの承認ではない。Die Verneinung ist eine Art, das Verdrängte zur Kenntnis zu nehmen, eigentlich schon eine Aufhebung der Verdrängung, aber freilich keine Annahme des Verdrängten.(フロイト『否定』1925年)
ラカン)Verneinung は、 セミネールの前に、イポリット氏が私に耳打ちしたように、dénégation(二重否定、前言を翻す行為)であって、翻訳のように négation(否定)ではない。(…)

イポリット)(否定行為にも打ち勝ち、 抑圧されたものの知的承認に成功しながら)―抑圧過程そのものはこれによって解除されない。  

これは私にはきわめて深いものと思われます。被分析者は受け入れ、取り消し dénégationても、抑圧はまだある! 

私の結論は、ここで生み出されるものに、ある哲学的名称を与えなければならないことです。この名をフロイトは述べてはいません。それは「否定の否定 la négation de la négation」(Negation der Negation)です。文字通り、ここで現れるもの、それは知的肯定です。しかし知的であるだけです。というのは否定の否定ですから。こうした用語はフロイトにはありません。しかしこう述べても私はフロイトの思考の延長線にあると思います。これが私が言いたいことです。(ラカン、S1、10 Février 1954)



ま、少なくともマルクスがまったく読めていないと一部でトッテモバカニサレテイル審査者たちのもと、ナンタラという賞をとったらしいダボハゼのようなマルクス論読んで時間を失うぐらいだったら、絶賛売り出し中のサモ・トムシック SAMO TOMŠIČ のTHE CAPITALIST UNCONSCIOUSでも手始めに読んどいたほうがずっといいよ。ジジェク組出身の若手だから、現実界の把握に難点がないことはないけど。

彼は直近に新著を上梓したから、ごく最近、旧著は無料で提供している→210.47.10.86:8032/2015-3/21384.pdf


Capitalist democracies claim for themselves the title of political inheritors and responses to the modern scientific revolution. But Marx already drew attention to the fact that the political signifiers of the French Revolution – freedom, equality and fraternity – were transformed by property and private interest. These political-economic signifiers rejected the idea of fraternity and restricted the revolutionary character of freedom and equality through the narcissism of the private. Fraternity, however, strives to found the social link on a form of philia that Marx had also been aiming at when he described the communist society as an association of free subjects: freed of the narcissism of private interests, which are, in the last instance, determined by the imperatives of capital. Of course, Marx did not create the illusion that the features of the communist social order could be foretold. What is certain is that such a political project demands ‘rigorous workers', to use Lacan's expression from his founding act of École freudienne de Paris.(SAMO TOMŠIČ, THE CAPITALIST UNCONSCIOUS, MARX AND LACAN, 2015)


………

「物なき唯物論 Materialismus ohne Materie」(ヤコービ書簡、フィヒテ宛)
現在、真の唯物論者である唯一の方法は、(ヤコービ=フィヒテのように)観念論をその限界まで突き進めることである。(ジジェク、Absolute Recoil「Anstoß (突っつく事、動因、きっかけ)」2014)

ーーマルクス的弁証法的唯物論とは、なによりもまず、物なき唯物論 matérialisme sans matièreである。



→「デモクラシーは不良である