でも現時点では、そしてラカン研究者プロパでなければ、以下を消化しておけばいいよ、たぶんね。少なくもゼロ年代における日本ラカン注釈書は大他者の享楽についてトンデモナイことが書かれているので、以下の注釈であれらを拭い去っておくべき。
まず前段としてこのところ何度か示している「大他者=異者としての身体」のエキス文を掲げておこう。
大他者=身体=異者としての身体
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大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
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大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、その意味は変化したにもかかわらず、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ。新しい意味は、自己身体を示している。それは最も根源的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者[the most intimate stranger]である。
ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)の以前の大他者は母女を示していたことを。
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このように享楽は自己身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ーーラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 [the (m)Other]への防衛に移行する事態は、所与の社会構造内での典型的な発達過程にすべて関わる。
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我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、「身体としての大他者」を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、「母なる大他者としての大他者」があり、シニフィアンの介入として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴付け」と呼ばれる)の介入を通してのみなのである。これは、なぜ母なる大他者が、彼女にたいして防衛が必要な「享楽の席」になるのかを説明している。……
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この議論の種子はフロイトに見出すことができる。フロイトは母が幼児を世話するとき、どの母も子供を「誘惑する」と記述している。養育行動は常に身体の境界領域に焦点を当てる。この同じ領域が享楽が位置付けられる場である(口、肛門、性器、肌、目、耳)。…
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ラカンはセミネールXXにて、リアルな身体を「自ら享楽する実体」としている。享楽(享楽の侵入)の最初期の経験は同時に、享楽の「身体の上への刻印」を意味する。…
母の介入は欠くことのできない補充である。(乾き飢えなどの不快に起因する過剰な欲動興奮としての)享楽の侵入は、子供との相互作用のなかで母によって徴づけられる。…
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身体から湧き起こるわれわれ自身の享楽は、楽しみうる enjoyable ものだけではない。それはまた明白に、統御する必要がある脅迫的 threatening なものである。享楽を飼い馴らす最も簡単な方法は、その脅威を他者に割り当てることである。...
フロイトは繰り返し示している。人が内的脅威から逃れる唯一の方法は、外部の世界にその脅威を「投射」することだと。問題は、享楽の事柄において、外部の世界はほとんど母女と同義であるということである・・・
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享楽は母なる大他者のシニフィアンによって徴づけられる。…もしなんらかの理由で(例えば母の癖で)、ある身体の領域や身体的行動が、他の領域や行動よりもより多く徴づけられるなら、それが成人生活においても突出した役割りを果たすことは確実である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
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上の注釈には、大他者の享楽がエロスにかかわり、かつ死にかかわることは示されていないので、それについてもいくらか引用しておこう。
大他者の享楽=エロス
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大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話に反して、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。[Cette jouissance de l'Autre, dont chacun sait à quel point c'est impossible, et contrairement même au mythe, enfin qu'évoque FREUD, qui est à savoir que l'Éros ça serait de faire Un]
…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…
…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] (=穴)の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
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享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
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◼️付記
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乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部から湧き起る未分化の欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
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内的欲動昂奮の結果として、来るべき主体 subject-to-be は、大他者に訴えかける。最初の大他者は、この訴えを、彼女自身の身体に向けた立場に基づいて、要求として解釈する。このようにして、彼女自身の欲望を含んだ応答を形成する。これが意味するのは、この瞬間以降、主体の欠如は、最初の大他者の欲望のなかで取り違えられるということだ。そして、主体はーー彼自身の欠如の答を受け取るためにーー、この最初の大他者の欲望を通り抜けなければならない。
単純な例ならこうだ。すなわち、子どもの興奮は、最初の大他者によって、食べ物への要求として、解釈される。その結果、子どもはそれを食べなければならないだけではなく、この解釈を元にして、自身の興奮を食べ物の欠如として解釈するように促される。この解釈にともない、最初の大他者は、彼女自身の欲望を表現するーーそれは十分には決して言語化されないーー、そして、子どもは、もし自身の欲動への応答を受け取りたいなら、その母の欲望に服従しなければならない。これが意味するのは、驚くべき反転が起こるということだ。自らの欠如への応答を得るために、主体は、大他者の欲望に従って、自らを形づくらなければならない。すなわち、大他者の欲望に同一化しなければならないのだ。この瞬間以降、主体と大他者とのあいだの相違は朧ろになる。すなわち、《主体の欲望は大他者の欲望》となる。さらに、主体と大他者の両者ともに、この欲望を解釈しなければならない。要求はけっして欲望を十分に表現しない。というのは、現実界とシニフィアンのあいだの不一致のためである。すなわち、どの応答も不十分であり、つねに残滓aがある。……(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics:、2004)
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