個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」)
こういっている加藤周一自身は、少なくとも芸術にかんして自らを「どこの馬の骨だかわからぬ男」とみなしている。
それはたとえば次の文が示している。
私は藝術についての漠然として主観的なお喋りを、私自身のそれを含めて、好まない。(加藤周一著作集「芸術の精神史的考察 I」あとがき 1979)
これは何も芸術にかぎらない。ツイッターというのはおおむね、 どこの馬の骨だかわからぬ女やどこの馬の骨だかわからぬ男が主観的なお喋りをする場だろう。だいたいあんな場でながながと分析的記述ができるわけがない。
たとえばだれかが「マルクスやニーチェ、フロイトを好きではない」といったとする。だがそれは「全くどっちでもよいことだ」。
バルトはこう言っている。
《私の好きなもの、好きでないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
ツイッター装置がファシスト装置として機能する場合が多々あることにお気づきでない方がいまだ多すぎる。とくに馬の骨のみなさん、お気をつけを!
あらゆる言葉のパフォーマンスとしての言語は、反動的でもなければ、進歩主義的でもない。それはたんにファシストなのだ。なぜなら、ファシズムとは、なにかを言うことを妨げるものではなく、なにかを言わざるを得なくさせるものだからである。(ロラン・バルト「コレージュ・ド・フランス開講講義」--『文学の記号学』1978年)
もちろんこういったことにまったく不感症なのが、完全ロバとその仲間たちである。
一方は完全ロバと、もう一方は自分の墓掘人どもの才気ある同盟者(クンデラ『不滅』)
もっともあの装置は自己のなかの黒々としたものの飼い馴らし装置としては大いに役立っていることだろうから、その視点でみれば連中の完全ロバぶりも情状酌量の余地がある。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(…)私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)
以上、どこの馬の骨だかわからぬ男の自己破壊性の飼い馴らしでした。