問いがあるので、何度も繰り返したことだが再度確認しておこう。女性の享楽 jouissance féminine は、生物学的女性の享楽ではなく、生物学的男性にもある両性の享楽である、と。
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ラカンはファルス享楽(エディプス的な、大他者と禁止に結びついた享楽)と女性の享楽(リアルな身体の享楽、意味外の享楽)を区別した。Lacan avait distingué la jouissance phallique (ou œdipienne, reliée à l'Autre et à l'interdit) et la jouissance féminine (jouissance du corps, réelle, hors-sens).…
ジャック=アラン・ミレールはすべての言存在に女性の享楽を一般化した。J.-A. Miller généralise la jouissance féminine à tout parlêtre. (JEAN GODEBSKI、Lacan … La jouissance、2018)
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ほとんどの人は女性の享楽概念における「女性」というシニフィアンに囚われてしまい、いまだ誤解があるが、ここでJEAN GODEBSKIの言っていることは、ミレールの2011年のセミネールに基づいており、現在の主流臨床ラカン派のコモンセンスである。
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最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
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ミレール は同じセミネールでこうも言っている。 |
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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要するに欲動=享楽=自体性愛であり、自体性愛とは自己身体の享楽のことである。だが自己身体の享楽とは何か? |
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自己身体の享楽(=自体性愛)はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。…これはむしろ精神病の要素現象(本源現象)の審級にある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre… là c'est plutôt de l'ordre du phénomène élémentaire de la psychose ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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「自己身体の享楽(=自体性愛)はあなたの身体を異者にする」とあるが、この異者corps étranger はフロイト概念「異物Fremdkörper」のことであり、フロイトは「たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen」(『制止、症状、不安』)としている。
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より詳しくは、「異物の享楽 jouissance du corps étranger」に示してあるが、ここでは簡潔に言おう。享楽自体=女性の享楽=自己身体の享楽とは、「異者としての身体の享楽」のことである。これは主流ラカン派でもいまだコモンセンスになっていないので蚊居肢子はここで強調しておくことにする。そしてこれを別名、サントームの享楽とも呼ぶのである。
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サントームの享楽 la jouissance du sinthome (Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité , 2018)
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サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
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純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
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このサントームとは、また言存在のサントームということでもある。 |
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・ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
・言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 ⋯analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。
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・言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtreは、身体の出来事 ・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状」、「ひとりの女」でありうる。
le sinthome d'un parlêtre, c'est un événement de corps, une émergence de jouissance. Le corps en question d'ailleurs, rien ne dit que c'est le vôtre. Vous pouvez être le symptôme d'un autre corps pour peu que vous soyez une femme.
・サントームは、言存在の症状として、言存在の身体に属している。
Le sinthome, […]comme symptôme du parlêtre, lui, tient au corps du parlêtre.(J.-A. MILLER,L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)
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上で、「他の身体の症状」、「ひとりの女」とミレール が言っているのは次のラカン発言からである。 |
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ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
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ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
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この他の身体の症状が、上に示した異者としての身体の症状である。 |
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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誰もが、自らにとって異者としての身体を持っている。フロイトはこれを「自我にとって治外法権」の身体、「内界にある自我の異郷」としての異物と表現している。 |
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…
われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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要するにエスの身体である。その身体による「無意識のエスの反復強迫」である。 |
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《リビドー 固着による「自動反復 Automatismus」=「無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es 」》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)
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これが女性の享楽なのである。
わたくしが好むニーチェの表現ならこうである。
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いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
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このエスの反復強迫としてのサントームの享楽=女性の享楽は、また自閉的享楽とも呼ばれる。 |
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サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)
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このピエール=ジル・ゲガーンが言っている自閉的享楽という表現は、ラカンはすでにセミネール10(1962年)段階で、フロイトの自体性愛と等置しつつ提示している。 |
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ここで何度も繰り返し貼り付けているミレール 2005のセミネールの冒頭図を確認の意味で再掲しておこう。
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