@HassanTMaitla · Jan 5
Half a million people have been killed in Syria. After Rwanda we said never again, after Sarajevo we said never again. But here we are again Russia and Assad bombing civilians in Idlib and world doesn't care. #whatidlibtaughtme
シリアではアサドとプーチンとロウハニによって50万人の人々が殺された。ルワンダの後、人々はもう繰り返さないと言った。サラエボの後、人々はもう繰り返さないと言った。しかし、ここイドリブで私たちは殺され続けている。世界は気にも留めない。
池内恵@chutoislam 毎日のようにやっているシリアのアサド政権の空爆に憤らないで、米国が絡んだ時だけ憤るのは何か変な思考のくせを我々は持っているんだよなあ、とだけなるべく多くの人が気づいてくれれば良いのだが。2020年1月8日 RT https://twitter.com/Mosa13Mosa/status/1214071597457428480
→「戦争反対のアポリア」
これは直近の話だが、「誠意ある」多くの方は、3年ほど前、例えば緒方貞子の精神的後継者のひとり長有紀枝さんが巧みに表現されているような問いを「真摯に」受けとめて来たんじゃなかったのだろうか、単純に自衛隊員の危険云々ではない、もっと根源的な問いを。
議論されるべきは、自衛隊員の危険云々ではなく、日本の国益には直接関係のない国でおきている、大規模な人権侵害、文民への虐殺といった暴行に対し、私たちの国は、どこまで犠牲を払うのか、払う用意があるのか、あるいは見過ごすのか。
そういう点であるように思います。正解があるわけではありません。民主主義国家において、それを決めるのは政治家であり、その政治家を選ぶのは私たち選挙民です。政治家の独断と言われるかもしれませんが、政治家は世論に敏感です。
現に、1994年のルワンダの大虐殺において、ベルギー軍が、まさにこれから虐殺が激しくなる時に撤退を決定したのは、ジェノサイド(集団殺害)のまさに初日に、穏健派の大統領を警護していた若きベルギーの兵士、10人が惨殺された事態を、世論が許さなかったからです。
1995年夏のボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァにおいて、同じく、ジェノサイドとされる事件が起きつつあるまさにそのとき、適切なタイミングでNATOによる空爆が実施されなかったのは、地上軍を派遣していたオランダ政府の意向が強く働いたからです。
私たちは他国の、私たちと同じような普通の市民が家を奪われ、教育の機会を奪われ、普通の生活と日常を奪われ、略奪され、レイプされ、命を奪われていくさまを、知らないこととして見過ごすのでしょうか? しかし、そこに介入していくには、こちらの側にも大きなリスクが伴います。私たちはそのリスクをどこまで受け止めることができるのでしょうか?(長有紀枝「南スーダンの陸上自衛隊撤収に思うこと」2017年03月15日)
幸運にも米国から与えられた憲法九条。その「戦争反対」という世界史的理念は、極東の島国日本のみの理念ではない。
冒頭のシリアではなく別の例を出そう。戦争反対という理念において一自衛隊員の死と「世界の警察官」の役割を果たしてきた一米兵の死は同じ重さにある筈である。それにもかかわらず海外派遣に関して、なぜ自衛隊員の死の危険を言い募る連中ばかりなのか? ムラ社会病、共感の共同体病なのか? 常に、とは言わない。だがときには「世界市民」病にかかるべきではないか。あるいはドゥルーズ のいう左翼病に。
左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である。Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse(ドゥルーズ『アベセデール』1995年)
どこもかしこも「右翼」ばかりである。とくにリベラル左翼の「右翼病」が際立って目立つ。
日本言論界というのは、危機が訪れるたびにほとんど毎度のこと、究極のジャパンファースト(一国主義)の正義派病が猖獗しているように見える。いつまでたっても池内恵氏曰くの「気づいてくれれば良いのだが」は実現されそうもない。とくに米国元凶論の立場をとれば正義の側に立てると思い込んでいる輩ばかりが跳梁跋扈している。
あの連中はただたんにその場かぎりの「庶民的正義感のはけ口派」と見做さざるを得ない。
あの連中はただたんにその場かぎりの「庶民的正義感のはけ口派」と見做さざるを得ない。
最後に、ある自戒を述べなければならない。被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。……
社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )