大きな鏡でみてみたわ、アタシのからだってとってもあなた好みだと思うわ
光学的図式(鏡像段階モデル)は、私の教えの準備段階に遡るものであり、分析テクニックにおいて過大に見積もられたこのモデルにおける想像界を取り払うdéblayer l'imaginaire 必要がある。われわれはもはやこの段階にはいない。…
私のモデルは対象aに光を当てることに失敗している。このモデルは、イマージュの戯れjeu d'imagesを表すとき、対象aが象徴界から受け取る機能を描写できていない il ne saurait décrire la fonction que cet objet reçoit du symbolique 。(ラカン、Remarques sur le Rapport de Daniel Lagache、E682 、1960年)
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ラカンがイマジネール(想像的)な審級 registre imaginaire について語ったとき、彼は見られ得るイマージュimages qui pouvaient se voirについて語った。…
しかし、次の事実がある。すなわち、いったん象徴界が導入されたときでも、ラカンは想像界について話すことを止めない。彼はまだ想像界について頻繁に語っている。だが想像界の定義はまったく変貌したのである。ポスト象徴的想像界 L'imaginaire postsymbolique は、象徴界の審級が導入される以前の、前象徴的想像界 l'imaginaire présymbolique とはひどく異なる。
象徴界が導入された後、いかにして想像界の概念は移行したのか? 厳密に言おう。想像界の最も重要な部分は、見られ得ないものである ce qui ne peut pas se voir。とくに、例としてセミネールIV「対象関係」で展開された臨床実践の核を取り出すとすれば、女性のファルス le phallus féminin、母なるファルス le phallus maternel がある。それが想像的ファルス le phallus imaginaire と呼ばれるのは、パラドクスである。というのは人はまさに想像的ファルスを見ることができないのだから。それはほとんど、想像力 imagination の問題であるかのようである。
ラカンの名高い鏡像段階 le stade du miroir における観察と理論化において、イマジネールな審級は本質的に知覚 perception と繋がっていた。ところが象徴界が導入されたとき、想像界と知覚とのあいだの分離がある。…これが意味するのは、想像界と象徴界の接合connexion de l'imaginaire et du symboliqueであり、したがってすべての知覚からの分離という命題 thèse qui se sépare de toute la perception である。すなわち、イマージュは見られ得ないものをスクリーンする(隠蔽する)のである l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir。(ジャック=アラン・ミレール『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
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