「知った人に会う」とわれわれが呼んでいる非常に単純な行為にしても、ある点まで知的行為である。会っている人の肉体的な外観に、われわれは自分のその人についてもっているすべての概念 notionsを注ぎこむ。したがってわれわれが思いえがく全体の相貌のなかには、それらの概念がたしかに最大の部分を占めることになる。そうした概念が、結局相手の人の頬にそれとそっくりなふくらみをつくり、その鼻にぴったりとくっつけた鼻筋を通してしまい、その声に、それがいわば振動する二つの透明な膜にすぎないかのように、さまざまなひびきのニュアンスを出させることになるのであって、その結果、われわれが相手の人の顔を見、その声をきくたびに、目のまえに見え、耳にきこえているのは、その人についての概念なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」)
私はここで、Jean-Louis Gault の談話に言及しようと思う。それは、主体のパートナーに関するものだ。彼は言う、主体の生活の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体であると。…事実上、彼が言う通り、他者との関係は、言語との関係としての何ものかである。それは人間との関係ではない。(ジャック=アラン・ミレール 、Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。
他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)
最初の要素は次の通り。他者autreは発話環境において主体のパートナーとして含まれている。それは言説の主体としてではない。
事実、人間のコミュニケーションは二人の個人のあいだの均等な交換ではない。そうではなく、コミュニケーションとは言説なのであり、そこでは主体は主体自身によって構築された他者へ話しかける。それはこの他者が友人であっても変わらない。
それゆえコミュニケーションとは二人の主体のあいだの間主体的なものではない。二人の人物のあいだにおいて、主体Aーー〈私〉と呼ぼうーーは主体Bではない或る主体に話しかける。そして主体Aに応答する〈あなた〉と呼ばれる主体Bは本当は彼の言説の他者に応答するのだ。
間主体性という誤解に満ちた特徴の全てのダイナミズムはこの論述構造の特異性から来る。
〈私〉は〈あなた〉に話しかけるのではない。そして〈あなた〉がこの〈私〉に応答するとき、〈あなた〉が応じているのは実際はこの〈私〉ではないのだ。
これがフロイトが転移的反復において発見したことである。すなわち私が話しかける人は自己内部の他者、彼自身の言説の他者であり、現実の他者ではない。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)
たとえば、一人称が聞き手との関係によって違っているような日本語では、一人称と「主体」が混同されることはけっしてなかった。しかし、日本語に「主語がない」ことは、日本語で語る人間に「主体」が無いことをすこしも意味しない。逆にいって、そうした文法的条件は、近代的な主観を乗り越えることをも意味しない。今日、日本語では、文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている。そうしたのは、西田幾多郎であった。この区別は、日本語の性質から直ちに来るものではない。そこに、こうした語が混同されている西洋哲学への「批判」がある。(柄谷行人「非デカルト的コギト」1992『ヒューモアとしての唯物論』所収)
ーー「文法上の subject と、理論理性としての subject、実践理性としての subject は、それぞれ主語、主観、主体と区別されている」とあるが、主語を除いて、理論理性、実践理性が上の図にそのまま当てはまるとはおそらく言えない。ただ用語を利用すれば上のようになるだろうという措定である。人は他人に話しかけているつもりでも、Serge Lesourdのいう「主体によって構成されたあなた」に話しかけているのであり、それは用語上では主観に話しかけているというのがおそらく相応しいだろう。プルースト的に言えば、自分のその人についてもっている概念に話しかけている。
主体を穴としたのは、基本には「主体は穴である」における引用群に則る。
穴とは去勢のことでもある。
最後にクンデラのユカイな文を付け加えておこう。
$ ≡ (-φ) ≡ (- J) ≡ trou
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(- J) ≡ (-φ) (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)
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$ ≡ (-φ) (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse- 8 avril 2009)
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 9/2/2011)
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最後にクンデラのユカイな文を付け加えておこう。
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ 『笑いと忘却の書』)