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2020年1月9日木曜日

主体は穴である


いかに空虚voidは生じたのか? いかにして空虚は哲学的思考の対象となったのか? 何が対象としての空虚を考えるように人を唆すのか? 

私に最初の暫定的テーゼを提示させて頂きたい。哲学は空虚の悪魔払いとして始まった。その最初の手段はおそらく、空虚を追放し、厄介払いし、流刑処分にすることだった。私は、あらゆる可能な手続きを以て、パルメニデスの詩を正当的な哲学の始まりとして取る。(ムラデン・ドラー Mladen Dolar, The Atom and the Void – from Democritus to Lacan, 2013)

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自己は休みないものである。eben diese Unruhe ist das Selbst(Hegel, Phänomenologie des Geistes, Vorrede)


自己は分裂であり、それ自身と一致することの不可能性に住まうものである。主体は自らを超えて突き進む。主体とはこのズレ以外の何ものでもない。主体の不可視の部分がズレ(不等性Ungleichheit)を引き起こす。(ムラデン・ドラーMladen Dolar, Hegel and Freud, 2012)
意識において自我とその対象である実体との間におこるズレ(不等性Ungleichheit)は両者の区別であり、全き否定的なものdas Negativeである。この否定的なものは両者の欠如(Mangel)とも見なされることはできるけれども、しかし両者の魂(Seele)であり両者を動かすものである。そこに若干の古人が空虚(das Leere)をもって動かすものと解した所以である。もっとも彼らは動かすものを確かに否定的なものとして把握しはしたが、しかし、まだこの否定的なものをもって自己(das Selbst)としてはとらえなかった。

Die Ungleichheit, die im Bewußtsein zwischen dem Ich und der Substanz, die sein Gegenstand ist, stattfindet, ist ihr Unterschied, das Negative überhaupt. Es kann als der Mangel beider angesehen werden, ist aber ihre Seele oder das Bewegende derselben; weswegen einige Alte das Leere als das Bewegende begriffen, indem sie das Bewegende zwar als das Negative, aber dieses noch nicht als das Selbst erfaßten. (ヘーゲル『精神現象学Phänomenologie des Geistes 』 Kapitel 5 )


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自我は自分の家の主人ではない das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus(フロイト『精神分析入門』1916)
主体sujetとは……欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 rond brûlé dans la brousse des pulsionsにすぎない。(ラカン、E666, 1960)
剰余人格Plus-Personneの場。ラカンはこの場を示すために隠喩を使った。欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴と。…

享楽のなかの場は空虚化vidéeされている。享楽の藪la brousse de la jouissanceのなかの場は、シニフィアンの主体le sujet du signifiant が刻印されうる。(J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)



世界の夜/否定的なものを見据え留まること
人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。/精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)
ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)