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2020年1月24日金曜日

あなたを見捨てる自己イマージュ

小説だからどう読もうと勝手だけれど、たぶんラカンが読むようには読んでいないんだろうな、ロルを。


パッションとしての愛は、本質的にイマジネールな平面にあり、…対象としての自分自身の中に他者を捕獲する試みである。l'amour en tant que passion ce quelque chose qui est essentiellement du plan imaginaire[…]est essentiellement tentative  de capture de l'autre dans soi-même, objet pris en tant qu'objet.  (Lacan, S1, 07 Juillet 1954)
ロルに何が起こったか、そして愛とは何であるかを示すものを認めるためにはこれで充分ではないだろうか。愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである。l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée, 

では、そのとき何として存在すればよいのだろうか。それについて何が言えるだろうか。19歳の情熱 passionでいっぱいのロルよ、あの夜あなたはドレスをまとい、あなたの裸はその上でドレスに輝きを与えていたというときに。 

そこであなたに残されたのは、あなたが小さな時に皆が言っていたように、あなたはいつもどこにいるのかわからないようだった、ということだ。 

しかしこの空虚はいったい何なのだろう。この空虚はここでひとつの意味を持つようになる。あなたは、たしかに、この場所で何かが壊れた夜明けまで一晩のあいだ、眼差しの中心であったのだ。 Mais qu'est-ce donc que cette vacuité ? Elle prend alors un sens : vous fûtes, oui, pour une nuit jusqu'à l'aurore où quelque chose à cette place a lâché : le centre des regards. (ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)


ふつう解釈されるのは
眼差しという欲望の原因を覆うのが
自己イマージュ  i(a)

もっとも欲望の原因としての対象aは、眼差しだけではまったくない。






愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)

われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択 Objektwahl に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)





眼差しは、セミネール1に現れる最も基本的説明だけを掲げておこう。

眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目すら、姿すら見ていない誰かによって自分が見られていると感じることもある。Je peux me sentir regardé par quelqu'un dont je ne vois pas même les yeux, et même pas l'apparence,。他者がそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあればそれで十分である。

例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差しである。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、S1, 02 Juin 1954)