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2020年1月23日木曜日

金の棕櫚

いやあまだわかんねえのかな、ボクは「金の棕櫚」が「享楽=愛の欲動」の原動力であるのはアタリマエだろっていってるんだよ、だったら女のほうが、つまりデュラスいわくのパッションが男よりずっと上回っているのは当然だろ?っていってんだ。で、そんなこといまさらいってどうするんだい?ってこといってんだよ。


「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした…人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私にとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」

「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる…総括的レジュメ!…」 (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


まえには何度も引用したんだがな。少なくもあれでは男と女のあいだの性器機能的パララックスがゼロだだよ

繰り返せば、ボクが依拠するパッションの正当的定義はこれさ。

感性的であるということは、受苦的であるということである。Sinnlich sein ist leidend sein.それゆえ、対象的な感性的な存在としての人間は、一つの受苦的〔leidend〕な存在であり、自分の苦悩〔leiden〕を感受する存在であるから、一つのパッション的〔leidenschaftlich〕な存在である。(マルクス「経済学・哲学草稿」第三草稿)


ボクは中学のときからマタイパッションとかヨハネパッションのファンなんだからな、このパッションに凝り固まっているんだよ、すまんねえ、偏見で。

で、大江も引用したがね、マルクス引用すると同時に。

僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ。コレマデズット、ズット…… 生レル前カラ、ズット、ダッカカモ知レナイホド。(大江健三郎「大いなる日に」第二章)
娘ノ扮装ヲサセテ若衆ニ鶏姦サレルコト……、アルイハ娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト (大江健三郎「大いなる日に」第五章)



この「娘ニ張形ヲツケサセテ鶏姦サレルコト」とはちょっとだけ違うんだな、ボクの場合。

ボクのパッションはオッカサンタイプじゃないとダメなんだ。


フロイトが気づいていなかったことは、最も避けられることはまた、最も欲望されるということである。不安の彼岸には、受動的ポジションへの欲望がある。他の人物、他のモノに服従する欲望である。そのなかに消滅する欲望……。(ポール・バーハウ, Paul Verhaeghe , THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998年)
モノChoseは常にどういうわけか空虚videによって表象される。…いやさらに厳密に言えば、モノは、他のモノ autre chose によってのみ表象される。(ラカンS7, 03  Février  1960)
モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère,(ラカン  S7   16  Décembre  1959 )



なんでこれに気づいてくれないんだろ。長年、フロイト定義の右項目ばっかりやってきたんだから、そろそろ左項に移行させてくれたっいいじゃないか、これこそパッションさ。