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2020年2月20日木曜日

1と身体がある



ムズカシイって言われてもな、説明するのメンドイよ。前回示したこの図ってのは、シニフィアンを使用して生きているヒト族のベースだよ。前回は固着、いわばリアルな去勢のみを示したけどさ。




この「1」が、(トラウマ的事故に典型的な)静止画像でも一緒。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



静止画像がなぜ反復強迫するのかは、身体的残滓があるから。これが上で中井久夫が言っている「異物 Fremdkörper」=異者としての身体。


静止画像=隠蔽記憶=現実界の窓
隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4 30 Janvier 1957 )
幻想は現実界のスクリーン(覆い)écran du réelだけではない。同時に現実界の窓(現実界に開かれた窓 fenêtre sur le réel)である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓l'écran et la fenêtreである。(J.-A. MILLER, - 2/2/2011 )


そもそもラカンの現実界はトラウマ界のこと。

現実界=トラウマ界
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)



これは象徴的去勢でも同じメカニズム。たとえばみんな、「私」という一人称単数代名詞のシニフィアンを使うことによって反復強迫の人生を送っているだろ。




象徴的去勢
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)



AはAではない
AはAと同じではない[A nicht gleich A]。…もしAがそれ自身と同一なら [identisch mit sich selbst; A=A] 、…どうしてAを反復する必要があるのか?(ヘーゲル『大論理学(Wissenschaft der Logik』1816年)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、1966)
われわれは、思考にとって「AはAである[A est A]」ということが昔からいかなる困難を引き起こしてきたかを知っている。「AはAである」というとき、AがかくもAならば、なぜAを自分自身から切り離し、すぐに置き戻すのであろうか?(ラカン, S9, 15  Novembre  1961)
よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する (高橋悠治「現代から伝統へ」2002年)
言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
私は私ではない
一方で、われわれが欲する場合に、われわれは同時に命じる者でもあり、かつ服従する者でもある、という条件の下にある。われわれは服従する者としては、強迫、強制、圧迫、抵抗Zwingens, Draengens, Drueckens, Widerstehens などの感情、また無理やり動かされるという感情などを抱くことになる。つまり意志する行為とともに即座に生じるこうした不快の感情を知ることになるのである。

しかし他方でまた、われわれは〈私〉という統合的な概念のおかげでこのような二重性をごまかし、いかにもそんな二重性は存在しないと欺瞞的に思いこむ習慣も身につけている。そしてそういう習慣が安泰である限り、まさにちょうどその範囲に応じて、一連の誤った推論が、従って意志そのものについての一連の虚偽の判断が、「意志するということ Willens」に関してまつわりついてきたのである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第19番、1886年)