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2020年2月2日日曜日

聖書焚書運動のすすめ


彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…

「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」

「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』1983年)

ーーここでのデボラは、ソレルスのパートナー、クリステヴァがモデルである。

聖書とは女を踏みつぶしてきたのである。これは聖書をすこしでも繙けば瞭然としている。今どきそう疑ったことのない者はたんなるキャベツ頭にすぎない。

通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…

完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen (ニーチェ『この人を見よ』)


そもそも蚊居肢子の脳髄のなかでは、ポリコレフェミニストたちが、いまもって聖書焚書運動をしないのは不思議でならない。21世紀の現在、真のフェミニストでありたいなら是非トモ聖書焚書運動ヲスベキデハナカロウカ?


モーセはヤハウェを設置し、キリストも同じくヤハウェを聖なる父として設置した。ムハンマドはアラーである。この三つの宗教書は、同じように典型的な男女の関係性を導入する。それは、女は、想定された原初の悪と欲望への性向のせいで、コントロールされなければならない人格だというものである。

フロイトもラカンもともに、この論拠の少なくとも一部に従っている。それ自体としては、これは奇妙ではない。彼らの患者たちはこの種の宗教的ディスクールのもとで成長しており、結果として、彼らの神経症はそれによって決定づけられていたのだから。

奇妙なのは、二人ともこの言説を、ある範囲で、実情の正しい描写と見なしていることだ。だがあれら一神教的言説は、現実界の脅迫的な部分の想像的加工にすぎないと読みうる。現実界ーーすなわち欲動(フロイト)、あるいは享楽(ラカン)--この現実界に対する防衛にすぎないと。

ラカンだけがこの陥穽を超えて前進した。とはいえそれは漸く晩年のセミネールになってからである。私の観点からは、このように女性性を定義するやり方は、男性自身の欲動の投射以外の何ものでもない。それは、女性を犠牲にして、欲動に対する防衛システムとして統合されたものである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009)


これはラカン派精神分析にとっては常識である。なぜそれほど表に出てこないかといえば、たとえばカトリック信者たちと無駄な争いをしたくないからだろう、とくに仏国はカトリック文化イデオロギーのドツボの国だから。

前回引用したジャック=アラン・ミレールの文も再掲しよう。

享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.

神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。

こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)




ミレールは、フロイトは父の名で立ち止まったと言っているが、最晩年のフロイトには母の名Nom de la Mère の示唆がある。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)


この1938年、この同じ年にラカンはすでにこう言っている。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)


原超自我、すなわち神である。

一般的には神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)


原母子関係においては必ず母なる女の支配がある。

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)


この母を母なる超自我と呼ぶのである。

母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)


そう、あの全能の母なる女である。

全能 omnipotence の構造は、母のなか、つまり原大他者 l'Autre primitif のなかにある。あの、あらゆる力 tout-puissant をもった大他者…(ラカン、S4、06 Février 1957)


したがって晩年のラカンは次のように言う。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…

「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)


S(Ⱥ)とは一神教的父なる神(父の名)はインチキだというマテームである。

神の死 La mort de Dieuは、父の名の支配として精神分析において設立されたものと同時代的である。そして父の名は、少なくとも最初の近似物として、「大他者は存在する」というシニフィアン[le signifiant que l'Autre existe]である。父の名の治世は、精神分析において、フロイトの治世に相当する。…ラカンはそれを信奉していない。ラカンは父の名を終焉させた。

したがって、斜線を引かれた大他者のシニフィアンS(Ⱥ)がある。そして父の名の複数化pluralisme des Nom-du-Père がある。名高い等置、「父の諸名 les Noms-du-Père」 と「騙されない者は彷徨うles Non-dupes-errent」である(同一の発音)…この表現は「大他者の不在 L'inexistence de l'Autre」に捧げられている。…これは「大他者は見せかけに過ぎないl'Autre n'est qu'un semblant」ということである。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique,Séminaire- 20/11/96)
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(,J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique , séminaire2 - 27/11/96)

以上、オワカリダロウカ? これは、少なくとも精神分析における構造的「事実」であり、いくら現在、たとえばカトリックの連中が女性擁護を言い募っていてもゴマカシにすぎない。もっともそうであっても、一神教の信者であることを全面的にはバカにするつもりはない。だがそれは、上に記した前提を受け入れてのち、はじめて意味をもつ。簡潔に言えば、冥界に対する防衛としての一神教の「機能」である。



人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)
母なるオルギア(距離のない狂宴)/父なるレリギオ(つつしみ)(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年『時のしずく』所収、摘要)
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan, S5, 22 Janvier 1958)
超自我 Surmoi…それは「猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」である。(ラカン、S7、18 Novembre 1959)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! 」と。(ラカン、 S18、16 Juin 1971)