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2020年2月3日月曜日

神の起源は LȺ Mère


以下、アウグスティヌス、ラカン、プルーストを列挙するが、すべて同じことを言っている。いや遠慮して「相同的」と言ってもよい。


interior intimo meo et superior summo meo
最も内なる部分よりもなお内にあり、しかも最も高き部分よりもなお高きにある
然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり(tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo   (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones)
extériorité intime, cette extimité qui est la Chose
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガーが使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
quelque chose en toi plus que toi
あなたの中にある何かあなた以上のもの 
私はあなたを愛する。だが私が愛するのは、奇妙にも、あなたの中にある何かあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi、すなわち対象aを愛する。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi(ラカン、S11、24 Juin 1964)
自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi 
私の全人間の転倒。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の枯渇を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるとともに、自我以上のもの moi et plus que moi (内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait)だったのだ。

私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。彼女が病気の発作を起こしたあのシャン=ゼリゼ以来はじめて、無意志的で完全な回想 souvenir involontaire et complet のなかに、祖母の生きた実在 réalité vivanteを見出したのだ。そのような実在 réalité は、それがわれわれの思考によって再創造されなければわれわれに存在するものではない(そうでないなら、大規模な戦闘に加わった人間はことごとく偉大な叙事詩人になるはずだ)、こうして私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(プルースト『ソドムとゴモラ』「心の間歇 intermittence du cœur」1921年)

ーーもちろん『失われた時をもとめて』の核心的章「心の間歇」ーープルーストは最初はあの長い小説の総題をこの「心の間歇」にしようと考えていたーーにおける祖母は母をモデルにしている。


ところで、ニーチェの「わたしの恐ろしい女主人」も上に列挙された表現と相同的な内実をもっているとわたくしは考えている。


わたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrin
何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。--ああ、わたしの女主人Herrinが怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるのだろうか。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……そのとき、声なき声 ohne Stimme がわたしに語った。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない[Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1883年)

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)


これを冒頭の引用群と相同的と捉える上には、いくらか難解かもしれない。だがもし仮にフロイト理論を鮮明化させたラカン派精神分析を受け入れるなら、そして前回の「女というものは神の別の名」「太古の超自我の母なる起源」「神は超自我の機能」「神は単に女というもの」等々の引用群を参照しつつ、上に引用した「モノは母」等、さらに以下の引用群に依拠すれば、そうならざるをえないのである。


モノ≒エス
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)
モノ=享楽の対象=喪われた対象=現実界
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
享楽は現実界にあるla jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)

モノ=穴=トラウマ
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [穴Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴(=トラウマ)があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )



最も簡潔に記せば、「モノ=母=神」とは、これは前々回示したように「Le Dieu est LȺ Mère」とすることができるように思う。すなわち「穴の空いた原母LȺ Mère」である。

蛇足かもしれないが、このLȺ Mèreとは、けっしてイマジネールな母ではなく、人間の発達段階における必然としての、乳幼児の身体から湧き起こるリビドー興奮という奔馬に対して最初の鞍を置く「母なる大他者」である。この原大他者がアウグスティヌスのいう”interior intimo meo et superior summo meo”、ラカンのいう "extériorité intime, cette extimité qui est la Chose"、プルーストのいう"moi et plus que moi" であるのは自明の理ではなかろうか?


〈大文字の母〉、それは基底としての「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou(コレット・ソレール Colette Soler « Humanisation ? », 2014年)
「女が欲することは、神も欲する。Ce que femme veut, Dieu le veut.」(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)、これは「母が欲することは、神も欲する Ce que la maman veut, Dieu Ie veut」と読み換えるべきである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex , 2009)


………

なおフロイトにおいて曖昧だった自我理想と超自我の区別ーーフロイトは自我理想=超自我と読める記述をしている場合が多いーーをラカン派では厳密に区別しており、用語的には、一般に次の図に示した言い方がなされている。



右項が原超自我--エスの原飼い馴らし機能を持ちつつ、エスに近接した審級であり、この「母なる超自我は死の欲動の別の名」[参照]でもある。



超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


そして、この原超自我を覆い宥めるのが左項の用語群、代表的には「自我理想=父の名」である。

なおフロイトの超自我と自我理想は、ラカンのボロメオの環を利用すればポジションとしては次のように置けると考えている。






ここで上に引用したニーチェの恐ろしい女主人は「声なき声」で「おまえはエスを知っているではないか」とあるのを思い出しておこう。人はみな「最も静かな時刻」をもてば、きっとその声が聞こえてくる筈である。あなたにはその経験がないか? いつも父の眼差しだけなのか? とすれば、あなたはエディプスに囚われた典型的な神経症者である。


「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
エディプスの斜陽 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)