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2020年2月26日水曜日

コモノ国民性

ラカン派では1968年の学園紛争を契機に大他者の時代から大兄弟の時代へ移行したと表現されることがあるが、これはコモノの時代への移行ということでもある。たとえば仏現代思想に限っても、おおむぬ60年代に大きな仕事がなされ、その後はヴァリエーションみたいなものだ。70年以降に新しく出てきた、まがりなりにも世界的に流通した思想家なんてのは小粒なヤツしかいない。大兄弟=マルチチュード=有象無象向けに書いているんだったらいっそうそうなる。コモノ化はいっそう進み、21世紀の現在、新しい思想書が出現したって20年後30年後にまだその書が読まれているなんて全く想像できない。あれらはコモノによる小粒書でしかない。例外があったら教えて欲しいもんだね。

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、また絶句せざるえないことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)

ーーフローベールは先行して言っているんだが、これは蓮實のテーマみたいなもんでもある。


日本においてはこの観点を差し置いても、昔からほとんどコモノばかりだというのは構造的必然でいまさらどうしようもない。

以下、手始めに三つの文を引用しよう。


風をみながら絶えず舵を切るほかない日本
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(「日本人がダメなのは成功のときである」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)
春風駘蕩たる日本と凛冽たる韓国
その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)
空気を読む日本人と激しやすい韓国人
ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。(……)

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。

私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年)

これを受け入れるなら、「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」の日本と「知っているなら即刻行動に移さなければならない知行合一」の韓国ということになる。

図式的すぎるという人はあるだろうが、おおむねアタリだよ。もっとも今は日韓比較の話をするつもりはない。春風駘蕩たる空気を読む日本人に焦点を絞る。

で、春風駘蕩たる日本の国民がリーダーも含めて、事前の「根回し」、世間の「空気」を読みながら行動する傾向があるのは、何よりもまず冒頭の中井久夫の言うように地震国であることが大きいのではなかろうか。言語が人を作るように、環境が人を作るのは当然である。

日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号 )
考えてみれば、災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはなかったのだ。日本列島に住んでいれば、一生に一度は、何かしら災害に見舞われたに違いない。誰が、荒れ狂う嵐に打つ勝てると思うだろう。誰が、大津波をはね返すことができると信じただろう。「自然を支配し、改造する」などという、一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていたに違いないのである。(関裕二『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』、2011年) 
一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)


地震や津波からはモーセは生まれない。砂漠や森だったら支配しうる。フロイトは宗教的観念の起源についてこう言っている。

宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』1927年)

だが同じ自然の圧倒的優位でも、支配しがたい海からは母神が生まれ、支配しうる砂漠からは父神が生まれる。そしてもともと母神が父神に先立っているのは知りうる限りでどの文化圏でも同じである。

偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
偉大なる母la Grande Mèreは、(ラカンが示した)神たちのあいだで最初の「白い神性la Déesse blanch」、父の諸宗教に先立つ神である。 (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME   2015)



これは、エディプス的な一神教=言語による経典が絶対の世界からかけ離れた前エディプス的なアニミズムの国日本は、象徴的-父権的ではなく身体的−母性的な環境にあるということだ。この帰結は、たとえば危機に際しても、政治の長は言語によるダイレクトな通達を避け、前言語的な根回しの形となりがちの人材を生む。リーダーが頑張って言語的な存在に徹しようとも、伝えるべき大衆はそうではない。言語的政治家は淘汰される。これは大都市の長のような直接選挙において最も顕著に現れる。エリートよりも芸能人が好まれる(父なき時代の現在、世界的にもその傾向があるとはいえ、欧米諸国は一神教文化の残滓がある)。

これ以外に今もって江戸文化の残滓がふんだんに残っている影響も多大にある。

つまり、刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)ってヤツだ。これも人間のコモノ化にすこぶる貢献した制度だ。

コジューヴが1959年に日本訪問して言った「スノビズム」、ラカンがバルトの日本文化論『記号の国』を受けて言った「礼儀」も、結局、江戸時代の生活様式のこと。

さらに言えば、その前の信長が比叡山を焼いて「天台本覚論」といういわゆる宇宙論的な哲学がお釈迦になっていっそうコモノの国の空気読みの国民になったんだろうよ。

無思想で大勢順応して暮す大衆社会先進国日本
日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)


こういったことは一朝一夕では変わらない。いやそもそも地震国であることは決して変わらないのだから、ビジョンなんて提示してもまともに受け入れられるはずはない。20年後30年後のヴィジョンよりもいつ来るかわからない大地震に無意識的に支配されて人は生きている。

というわけで、ごく当たり前のことを記述したかも知れないが、日本ではズルズル行くより仕様がないんだよ。とくにポピュリズムに頼ったら間違いなくそうなるな。どこに向かってズルズルなのかはシラナイがね。オッカサマの股のあいだのブラックホールかもな。でもそこに落ち込めば、再生があるかもよ。