愛は嘘
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症状は現実界についての嘘である。症状は、性関係はないという現実界についての特化した嘘である。Le symptôme est un mensonge sur le réel. Le symptôme est un mensonge sur le réel parce qu'il est spécialement un mensonge sur ce réel que le rapport sexuel n'existe pas. (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique, 18/12/96)
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愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実、これは(症状としての愛の根にある)リアルな条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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唯一の真理=話す身体の享楽
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真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)
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すべてが仮象(見せかけsemblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
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現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
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話す身体=自ら享楽する身体=自体性愛=性関係はない
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身体の実体は「自ら享楽する身体」としてのみ定義される。Substance du corps, à condition qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ». (ラカン, S20, 19 Décembre 1972)
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「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)
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ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール・ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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「愛は嘘」を穏やかに言えば、たとえば「愛はナルシシズム的」、あるいは「愛は転移」となる。
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愛することは、本質的に、愛されたいということである。l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. (ラカン、S11, 17 Juin 1964)
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愛はその本質においてナルシシズム的である。l'amour dans son essence est narcissique (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)
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フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…
愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
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精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre。この理由で、精神分析において愛は、模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。
人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。
それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…
我々はフロイトの仮説から始める。
・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。
我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。…
フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年)
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なお、底にある原ナルシシズムは、「ヒト族のふたつの原不安」で記した内実をもっています。享楽=原ナルシシズム=自体性愛=自己身体の享楽であり、自己身体の享楽とはじつは究極的には母なる自己身体の享楽です。乳幼児期にはヒトは母の身体と自己身体を識別していないゆえの「母なる自己身体」です。
以上、シツレイしました。精神分析などに首を突っ込むとロクなことはありまんから、みなさんお気をつけを!
なお皆さんが精神分析よりはきっとお好きだろう「差異」の思想家ドゥルーズ は次のような言い方をしております。 われわれの愛には、根源的な差異 différence originelle が支配している。それは恐らく母のイマージュ image de Mère であり、女性、ヴァントゥイユ嬢にとっては父のイマージュである。しかしもっと深いところでは、根源的な差異とはわれわれの経験を越えた遠いイマージュ、われわれを超越するテーマ、一種の原型である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)
さて愛を貶めてしまったお詫びに蚊居肢散人の愛する文を貼り付けておきます。
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愛する者と一緒にいて、他のことを考える。そうすると、一番よい考えが浮かぶ。仕事に必要な着想が一番よく得られる。テクストについても同様だ。私が間接的に聞くようなことになれば、テキストは私の中に最高の快楽を生ぜしめる。読んでいて、何度も顔を挙げ、他のことに耳を傾けたい気持ちになればいいのだ。私は必ずしも快楽のテキストに捉えられているわけではない。それは移り気で、複雑で、微妙な、ほとんど落ち着きがないともいえる行為かもしれない。思いがけない顔の動き。われわれの聞いていることは何も聞かず、われわれの聞いていないことを聞いている鳥の動きのような。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)
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ひとりでいることは孤独のなかにあることとは違う。孤独という言葉は、たしかにほかに誰も一緒にいる人間がいなくとも、自分を相手としている状態を語るものとしたい。ひとりでいようが、それともほかの人間と一緒にいようが、自分を相手としていない時間、「誰かの不在が意識される」としても、それがほかの誰かというよりも自分自身の不在であるような瞬間を自己喪失と呼びたい(その逆に、愛とは、ほかの誰かがいるのに、まるでいないような意識が生じる場合だ)。孤独のなかにあること、それは他者がそこに、わたしの内部にいるという確実さの体験である。そのほかに孤立ということがある。この場合は他者も自己も不在なのだ。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)
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創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」)
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と引用すると、次のように引用したくなる悪癖があるのが「彼」です。とはいえ、人は常にパララクスが必要です。
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愛は喜劇
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器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心 libidinöse Interesse を自分の愛の対象 Liebesobjekten から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。
このような事実が月並みだからといって、これをリビドー 理論 Libidotheorie の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給Libidobesetzungenを彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。
W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我の関心 Libido und Ichinteresse とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
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と引用したら芋蔓式にまたまたフロイト文を想い起こしました。これは直接的には愛の話ではありませんが、実に正当的見解であり、愛するときも夏服だけでなく冬服を準備しておかねばなりません。
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夏服と冬服
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今日の教育に向けられなければならない非難は、セクシャリティがその後の人生において演ずるはずの役割を若い人に隠しておくということだけではない。そのほかにも今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
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