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2020年2月6日木曜日

十川幸司と立木康介という人


若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞2017年1月1日号)
浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)


………


いやあ、十川幸司と立木康介という人、ダイジョウブかな



対談=十川幸司×立木康介「フロイトはいまだ読まれてはいない 」
立木  ナルシシズムとは、外部の対象に向けていた欲望のリビードを、対象に拒絶されたり、対象を失ったときに、自我に引き上げることで、自我のうちに興奮の刺激量が増加する状態のことで す。とすれば、これは必然的に不調和で不快な経験であると。目の覚めるような、痛快なメッ セージでした。 

十川  ナルシシズムは、精神分析固有の領域を超えて濫用されている概念ですが、大部分はフロイトが作り出した概念とは無関係な形で使われています。フロイトは、あくまでナルシシズムをリビードの量の問題として考えていたわけで、単純な心理学的発想に基づくものではありません。日本語だと自己愛と訳されていますが、ナルシシズムは「自己」とも「愛」とも直接の関係はありません。この概念は極めて便利なので、病理の本質とは無関係に応用されてし まう。ナルシシズムは倒錯の問題であり、自我と欲動の病理です。ナルシシズムは人に快を与 えるのではなく、不安や不快をもたらすという点を、明確にしておく必要があります。 (対談=十川幸司×立木康介「フロイトはいまだ読まれてはいない 」--『フロイディアン・ステップ』刊行記念対談、2020年1月)


「フロイトはいまだ読まれてはいない 」ってのは、ボク珍たちは「フロイトをいまだ読んでない」ってことなんだろうか? ことこどく反フロイト的だよ、少なくともボクの知る限りでは。どう贔屓目にみてもあまりにも不用意な発言だな。本にはもっとマトモなこと書かれてんだろうか? それとも蓮實曰くの「世間で言われていることの大半は嘘」ってのをマガオで実践してんだろうか? だったら精神分析研究者の若い人たちは早いとここの二人と闘ったほうがいいんじゃないかね、そうでないと日本の精神分析はそうそうに亡びちゃうよ。例えばこういう二人に対して「若くて優秀な」マツタクあたりはどう考えてんだろ? そうそうに沈没させたらどうだい? もし下の引用群を受け入れるなら。それとも何処かに情状酌量の余地はあるんだろうか? 連中は原ナルシシズムを外して二次ナルシシズムを語ってんだとか訳語の問題だとか誤魔化してもムダだぜ。



ある時期以降のフロイトには「自己愛、つまりナルシシズム Selbstliebe, eines Narzißmus」(1921)「ナルシシズム的自己愛 narzißtischen Selbstliebe」(1917)等々の表現が頻出するのだが、ここではまず一文だけ長く引き、この語はないにもかかわらず、それに関係する核心的文をいくらか並べ、ラカン派注釈を続ける。


ナルシシズムあるいは自己愛 »Narzißmus« oder Selbstliebe
エディプスコンプレクスにおいては、リビドーは両親の表象と結びついて現われるが、それ以前にはリビドーはそのような対象をもたない。これは、リビドー理論の基本的コンセプトの元となる状態であり、リビドーは自我自体をその対象とするのである 。この状態をナルシシズムあるいは自己愛と呼びうる [Diesen Zustand konnte man »Narzißmus« oder Selbstliebe nennen]。この状態は完全には放棄されず、一生の間、自我は大いなるリビドー貯蔵庫große Libidoreservoir のままであり、そこから対象備給に送り出されたり、ふたたび対象から引き上げられたりする。このようにしてナルシシズム的リビドーは常時、対象リビドーに移行したり逆転したりする。 (フロイト『自己を語るSelbstdarstellung 』1925年)
Im Ödipuskomplex zeigte sich die Libido an die Vorstellung der elterlichen Personen gebunden. Aber es hatte vorher eine Zeit ohne alle solche Objekte gegeben. Daraus ergab sich die für eine Libidotheorie grundlegende Konzeption eines Zustandes, in dem die Libido das eigene Ich erfüllt, dieses selbst zum Objekt genommen hat. Diesen Zustand konnte man »Narzißmus« oder Selbstliebe nennen. Die nächsten Überlegungen sagten, daß er eigentlich nie völlig aufgehoben wird; für die ganze Lebenszeit bleibt das Ich das große Libidoreservoir, aus welchem Objektbesetzungen ausgeschickt werden, in welches die Libido von den Objekten wieder zurückströmen kann. Narzißtische Libido setzt sich also fortwährend in Objektlibido um und umgekehrt. 
ナルシシズム的リビドー(自我へのリビドー)は対象リビドーに先行する
エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量が蓄積される。われわれはこれを絶対的原ナルシシズム(一次ナルシシズム primären Narzissmus)と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以って対象表象 Vorstellungen von Objekten に備給し、ナルシシズム的リビドー narzisstische Libido を対象リビドー Objektlibido に移行させるまで続く。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
Es ist schwer, etwas über das Verhalten der Libido im Es und im Überich auszusagen. Alles, was wir darüber wissen, bezieht sich auf das Ich, in dem anfänglich der ganze verfügbare Betrag von Libido aufgespeichert ist. Wir nennen diesen Zustand den absoluten primären Narzissmus. Er hält solange an, bis das Ich beginnt die Vorstellungen von Objekten mit Libido zu besetzen, narzisstische Libido in Objekt-libido umzusetzen.
原ナルシシズムリビドーの対象は母なる自己身体である
子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着に起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。

最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis. Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden, wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich. Dies erste Objekt vervollständigt sich später zur Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeutung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. 
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
Man hat geltend gemacht, daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte, daß er die regelmäßige Abgabe des Stuhlgangs nicht anders werten kann, ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. 





ナルシシズム=自体性愛
ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう。narzißtischen ― Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)
愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は根源的にナルシズム的である。Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch, (フロイト『欲動とその運命』1915年)
享楽=自体性愛
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
自体性愛=自己身体の享楽=去勢の徴の享楽
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。…

疑いもなくこのモノはナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理である。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・自己身体のエロスérotique de soi-même に取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)
享楽=リビドー=去勢(去勢された自己身体を取り戻そうとする運動)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
母からの分離=原去勢
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
まず最初に生物学的 biologischer な母からの分離 Trennung von der Mutter
、次に直接的な対象喪失 direkten Objektverlustes、のちには間接的方法 indirekte Wege で起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


原ナルシシズム運動
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)





リビドーLibido= 愛の欲動 Liebestriebe 
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。

しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。

これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。

……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「リーベ Liebe」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



以上、ある時期以降のフロイトは愛あるいはエロスという用語をリビドーと等価のものとして扱っているのである。

すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

したがって《ナルシシズムは「自己」とも「愛」とも直接の関係はありません。》などという言い草はすこぶるmisleading である。


そしてこの愛=エロスが通念に反してラカンの享楽である(巷間で語られている享楽とは剰余享楽にすぎない)。

エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)

◼️参照「エロスは死である


シツレイながら「愛の欲動は死の欲動」ではないかと疑ったことのない者は、フロイトラカンの思考の核心をはずしてしまう。→三馬鹿トリオ(日本フロイト・ラカン派)