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2020年2月7日金曜日

原ナルシシズム運動という「愛の欲動=死の欲動」


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ。(ヴィトゲンシュタイン『反哲学的断章』)



いままで繰り返してきた内容だが、ここではいくらかまとめて記しておくことにする。前回、ふたりの日本フロイトラカン派の発言をバカにした理由の大半は以下にある。

ラカンが原ナルシシズムに触れている最後の発言は、わたくしの知る限り次のものである。

フロイトにおける現実界=快自我=原ナルシシズム
フロイト理論において、現実界は世界とは何の関係もない le Réel n'a rien à faire avec le monde。フロイトが説明していることは、自我にかかわる何か、つまり快自我 Lust-Ichである。そしてこれは原ナルシシズムの段階 étape de narcissisme primaireにある。この原ナルシシズムの特徴は、主体がないことではなく、内部と外部の関係がないことである。'il n'y a pas  de rapport de l'intérieur à l'extérieur (Lacan, S23, 11 Mai 1976)


これは明らかに『文化の中の居心地の悪さ』の第1章に依拠している。核心箇所をいくらか長くなるが引こう。

快自我
病理学によれば、自我 Ichsと外界 Außenwelt の境界 Abgrenzung が不明確になったり、その境界線が本当に間違って引かれてしまうような状態は非常に多い。すなわち、自己身体の各部 Teile des eigenen Körpers、いやそれどころか、自分の心的生活・知覚・考え・感情などまでを自分のものではない異質のものだと思いこむ患者もあれば、反対に、明らかに自分の内部で起こったことであり、当然自分が責任を取らなければならないことを外界の責任にしてしまう患者もある。つまり、自我感情 Ichgefühl も阻害されることがあり、自我の境界線は不変ではない。  

さらに考察を進めると、普通の大人が持っているこの自我感情Ichgefühlなるものは、はじめからいまの形のものだったはずはないと言える。そこにも発展があったはずで、この発展の経路は、むろん証明は不可能であるが、かなり確実に再構成することができる。

乳児はまだ、自分の自我と自分に向かって殺到してくる感覚の源泉としての外界Außenweltを区別しておらず、この区別を、 さまざまな刺激への反応を通じて少しずつ学んでゆく。 

乳児にいちばん強烈な印象を与えるものは、興奮源泉 Erregungsquellen のうちのある種のものは ーーそれが自己身体器官seine Körperorganeに他ならないということが分かるのはもっとあとのことであるーーいつでも自分に感覚 Empfindungen を供給してくれるのに、ほかのものーーその中でも自分がいちばん欲しい母の乳房 Mutterbrust――はときおり自分を離れてしまい、助けを求めて泣き叫ばなければ自分のところにやってこないという事実であるに違いない。ここにはじめて、自我にたいして 「対象 Objekt」が、自我の「そと außerhalb」にあり、自我のほうで特別の行動を取らなければ現われてこないものとして登場する。

感覚総体 Empfindungsmasse からの自我の分離Loslösung des Ichs ーーすなわち「非我Draußen」や外界Außenwelt の認知――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理 Lustprinzip が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛 Schmerzと不快感 Unlustempfindungenである。

こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我とは異質で自我を脅かす非我 Draußen と対立する「純粋快自我 reines Lust-Ich」を形成しようとする傾向が生まれる。この「原快自我 primitiven Lust-Ichs」 の境界線は、その後の経験による修正を免れることはできない。なぜなら、自分に快を与えてくれるという理由で自我としては手離したくないものの一部は自我でなくて客体(対象Objekt)であるし、自我から追放したいと思われる苦痛の中にも、その原因が自我にあり、自我から引き離すことができないと分かるものがあるからである。  

われわれは、感覚活動 Sinnestätigkeit の意識的な統制と適当な筋肉運動によって、自我に所属する内的なものと外界に由来する外的なものを区別することを学び、それによって、今後の発展を支配することになる現実原理 Realitätsprinzips 設定への第一歩を踏みだす。この区別はむろん、現実のーーないしは予想されるーー不快感から身を守るという実際的な目的を持っている。自分の内部に由来するある種の不快な興奮を防ぐために自我が用いる手段が、外からの不快を避けるために用いるのと同じものだという事実は、のち、さまざまの重大な病的障害 krankhafter Störungen の出発点になる。 

自我が外界とのあいだに境界線を置くようになる過程は以上のようである。もっと正確に言えば、はじめは一切を含んでいた自我が、あとになって、自分の中から外界を分離するscheidet es eine Außenweltのである。したがって、今日われわれが持っている自我感情 Ichgefühl は、自我と外界の結びつきが今よりも密接であった当時にはふさわしかったはるかに包括的なーーいや、一切を包括していた感情 allumfassenden Gefühls がしぼんだ残りにすぎない。

多くの人々の心にこの「原自我感情 primäre Ichgefühl」 がーー多かれ少なかれーー残っているものと考えてさしつかえなければ、この感情は、それよりも狭くかつ明確な境界線を持った成熟期の自我感情と一種の対立をなしながらこれと並んで存続するだろうし、またこの感情にふさわしい観念内容 Vorstellungsinhalte とは、無限とか一切のものと結びついているとかいう、まさに私の友人(ロマン・ロラン)が「大洋的な ozeanische」感情の説明に用いたのと同じ観念内容であろう。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


上にあるように乳児が自己身体と区別していない母の乳房との融合が原ナルシシズム状態のひとつの核心である。

フロイトの死の枕元にあったとされる草稿には同様のことが書かれている。

母の乳房への原ナルシシズム的リビドー備給
子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)


もっともフロイトには母の乳房以前に子宮内生活が原ナルシシズム状態だと読める記述がある。

原ナルシシズム状態=子宮内生活
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。
 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我への分化 Differenzierung des Ichs vom Es が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


そしてこの文脈のなかで次の文を読むことが出来る。

原ナルシシズム運動=母胎回帰運動=母なる大地帰還運動
自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)


ラカンの思考も同様である。

まず最晩年のラカンの享楽の定義と簡潔なミレール注釈を掲げよう。

享楽=リビドーは去勢である
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


ここでフロイトの去勢の定義を確認の意味でひとつだけ掲げておこう。

去勢=自己身体の喪失、原去勢=出産外傷
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の重要な一部Körperteilsの喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


さてこの文脈における核心だとわたくしが見なしているラカンの発言は次のものである。

享楽回帰運動=喪われたモノを取り戻そうとする運動
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondを象徴する。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)



ラカンにとって大他者の享楽とはエロスである。

大他者の享楽=エロス  
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)


だがこの大他者の享楽は生きている存在には不可能である。

大他者の享楽=エロス=融合=死
大他者の享楽 jouissance de l'Autre は不可能impossibleである。大他者の享楽は、フロイトが提起した神話、すなわちエロスであり、ひとつになる faire Un という神話である。

…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりえない ne peuvent en faire qu'Un。…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要訳)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


大他者には身体という意味がある。

大他者の享楽=身体の享楽
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)


ラカンは既にセミネール10の段階で、自己身体の享楽=自体性愛=原ナルシシズム等を等置している。

自己身体の享楽=原ナルシシズム=自体性愛=自閉的享楽
(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) [去勢]という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エネルギーのなかに備給されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く備給されたまま reste investi profondément である。

ーー自己身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)
自閉的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. Jacques-Alain Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 02/05/2001) 


そしてこの自己身体の享楽としての「自体性愛=原ナルシシズム」が享楽自体である。

享楽=自体性愛
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


もっともここで注意しなければならないことは、原ナルシシズムとしての自体性愛は、上に記してきたように(究極的には)喪われた自己身体(去勢されてしまった自己身体)の享楽、「母なる自己身体の享楽」=「モノを取り戻そうとする運動」だということである。

自体性愛=自己身体の享楽=去勢によって喪われた自己身体の享楽
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。…

疑いもなくこのモノはナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理である。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・自己身体のエロスérotique de soi-même に取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、自己身体の享楽の徴marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)


だが、この身体を真に取り戻せば死である。

享楽=死への道
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


したがって次のような注釈がなされる。

享楽それ自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味するから。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。

Jouissance as such is impossible for the living subject, as it implies its own death. The only possibility left is to take a roundabout route, repeating it in order to postpone as long as possible one's arrival at the destination. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)





さて以上から通念からは一見奇妙なことに気づくだろう。

①まず「大他者の享楽=享楽自体」であることを示した。
②そしてこの享楽は、「自己身体の享楽=自体性愛=原ナルシシズム」であり、究極的には「去勢によって喪われた自己身体の反復的享楽」「享楽の対象としての喪われたモノを取り戻そうとする享楽回帰運動」であることを示した。

③「大他者の享楽=エロス=死」であることを示した。
④「享楽=リビドー」であることを示した。

ーーここで享楽=エロス=死であるなら、タナトスとは何かという問いが生じるはずである。

フロイト最晩年のエロスとタナトスの定義はこうである。

エロス/タナトス=融合/分離
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)

愛=エロスは融合である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)

そして上にみてきたように、この融合=大他者の享楽は死であり不可能だとラカンは言っているのである。

ラカンはこうも言っている。

すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

究極の融合としてのエロスは死である、これはおそらく誰もが納得するはずである。では分離としてのタナトスはどこにいってしまったのか。

分離とは斥力のことでもある。

エロス  /タナトス=引力/斥力
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのかWarum Krieg?』1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


ここからタナトスについてはこう言わざるを得なくなる。すなわち人は融合というエロスの引力に誘引されつつも、死の恐怖により分離という斥力が働く。これをタナトスと呼ぶと。

こういった捉え方のもと一見ひどく奇妙な「生の欲動/死の欲動」の定義がポール・バーハウによってなされている。

生の欲動は死を目指し、死の欲動は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)

だがこれは正しいと今のわたくしは考えている。例えばこう言い換えればよいのである。ーーエロスの引力が先立つがその引力に反発する力も生じ、究極のエロスを忌避するのがタナトスの力だと。

引力は磁石である。

女はどういう男をもっとも憎むか。――鉄が磁石に言ったことがある。「わたしがおまえをもっとも憎むのは、おまえがわたしを引きながらも、ぐっと引きよせて離さぬほどには強く引かないからだ」と。

Wen hasst das Weib am meisten? - Also sprach das Eisen zum Magneten: "ich hasse dich am meisten, weil du anziehst, aber nicht stark genug bist, an dich zu ziehen."(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「老いた女と若い女」)


ここで確認しておこう。フロイトのリビドーの定義を。

まず最晩年にフロイトのリビドー定義である。

リビドー=エロスエネルギー
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


次に最も鮮明に表現されているリビドーの定義である。

リビドー=愛の力=愛の欲動=性欲動
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。

われわれが愛Liebeと名づけるものの核心となっているものは、ふつう詩人が歌い上げる愛、つまり性的融合 geschlechtlichen Vereinigungを目標とする性愛 Geschlechtsliebe であることは当然である。
しかしわれわれは、ふだん愛Liebeの名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛Selbstliebe、他方では両親や子供の愛Eltern- und Kindesliebe、友情 Freundschaft、普遍的な人類愛allgemeine Menschenliebを切り捨てはしないし、また具体的対象や抽象的理念への献身 Hingebung an konkrete Gegenstände und an abstrakte Ideen をも切り離しはしない。
これらすべての努力は、おなじ欲動興奮 Triebregungen の表現である。つまり両性を性的融合 geschlechtlichen Vereinigung へと駆り立てたり、他の場合は、もちろんこの性的目標sexuellen Ziel から外れているか或いはこの目標達成を保留しているが、いつでも本来の本質ursprünglichen Wesenを保っていて、同一Identitätであることを明示している。
……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。「教養ある Gebildeten」マジョリティは、この命名を侮辱とみなし、精神分析に「汎性欲説 Pansexualismus」という非難をなげつけ復讐した。性をなにか人間性をはずかしめ、けがすものと考える人は、どうぞご自由に、エロスErosとかエロティック Erotik という言葉を使えばよろしい。(⋯⋯

私には性 Sexualität を恥じらうことになんらかの功徳があるとは思えない。エロスというギリシア語は、罵詈雑言をやわらげるだろうが、結局はそれも、わがドイツ語の「リーベ Liebe」の翻訳である。つまるところ、待つことを知る者は譲歩などする必要はないのである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


以上、享楽=リビドーは愛の欲動でありエロスエネルギーである。そしてこれこそ死の欲動なのである。かつまたこれを原ナルシシズム運動とも呼ぶことができる。

そしてもし分離=斥力としてのタナトスという用語を生かすなら、エロスに惹かれつつも究極の愛を避ける力がタナトスとすることができる。


より深いレベルでのエロス=永遠の生を把握する観点はここでは割愛した。それはニーチェ的永遠の享楽 ewige Lust 、カール・ケレイニー的ゾーエー Zoë観点のものであり、文献としては「永遠の生(不死の生)は個体の死のことである」にある。

この観点からは、個体の死(タナトス)による不死の生への回帰、これが「永遠の享楽 ewige Lust=ゾーエー Zoë」だとなる。

ドゥルーズは、生の欲動と死の欲動だけではなく、もうひとつ死の本能概念を別に定義して三幅対でフロイトの思考を捉え直したが、これはここで記した内容にいくらかニーチェ、ケレイニーの思考を加味すれば、そのなかに吸収しうるとわたくしは考えている。