結局、人間はこのように身体と言語で出来上がっている。もっとも身体というとき、ラカン的には「言語によって構造化されたイマジネールな身体」と「リアルな欲動の身体」がある。人が通常、身体と言っているものは言語にすぎない(参照)。他方、リアルな身体は人が自らは気づかないままで反復強迫しているエスの身体。
上の図は、たとえば次のようにも図示できる。
※モノdas Dingについては「モノ=斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」を見よ。
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言わせてもらえば、フロイトをほとんど読んでいないのが丸分かりのラカン愛好者ってのはとってもミニクイよ、ラカンの言葉というのはフロイトよりずっとカッコイイのは認めないわけではないがね。その中味スカスカのラカン用語をチャラチャラ使って何やら言ってる連中ってのは《ただかっこいい言葉の蝶々を追っかけただけの/世間知らずの子ども》(俊)でしかないね。
自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか? (大江健三郎の『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」)
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忙しい人間に文学、つまり、本を読むことの必要などない筈であって、それでも教養が身に付けたいという種類のいじらしい考えでいても、そうしたせかせかした気持で人が書いた言葉など楽しめるものではない。仮に本当に教養が身に付けたいのであっても、そんなに忙しいならば、又、教養というのが精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。(吉田健一『文学の楽しみ』)
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鳥語装置の囀りだけじゃないがね、でもツイッタラーってのはほんとにスカスカビラビラ派ばっかりだな。ま、誰でもそういう時期はある、って言い方をしておいてもいいけど、ボクはもうお付き合いは御免被るね。
タイタン族との鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性の格闘
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フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。
フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)
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中井久夫の言うように、ラカンは「不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性」にすぎない。
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マゾヒズム・倒錯・妄想
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享楽は現実界にある。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを発見したのである。la jouissance c'est du Réel. […]Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
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フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的であるtoute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, S23, 11 Mai 1976)
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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
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ーーこれ以外に真の臨床的核心は、リビドーの固着(享楽の固着)・トラウマへの固着(穴への固着)だが、それは割愛。 現代ラカン派が一般化倒錯やら一般化妄想やらというのは、原マゾヒズム =死の欲動に対する防衛のこと(参照)。 |
原マゾヒズム=死の欲動
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マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
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私はどの哲学者にも喧嘩を売っている。…言わせてもらえば、今日、どの哲学も我々に出会えない。哲学の哀れな流産 misérables avortons de philosophie! 我々は前世紀(19世紀)の初めからあの哲学の襤褸切れの習慣 habits qui se morcellent を引き摺っているのだ。あれら哲学とは、唯一の問いに遭遇しないようにその周りを浮かれ踊る方法 façon de batifoler 以外の何ものでもない。…唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の本能 instinct de mort 、享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance である。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し視線を逸らしている。Toute la parole philosophique foire et se dérobe.(ラカン、S13、June 8, 1966)
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