我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、反吐をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、My friends call me Fidel、2016年)
で、どうだい?
きみは優しい男が好きらしいが
誘拐犯の友人を拷問するエゴ男と
誘拐犯の友人を拷問するエゴ男と
拷問しない優しい男とどっちをとるんだい?
よく知ってるはずだがな、
キャベツ頭でない女なら。
よく知ってるはずだがな、
キャベツ頭でない女なら。
全世界の者 ――通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfenは全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ ……およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 ……あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 ……あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである ……われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。結局、このことをいっとうよく知っているのは女たちである。彼女らは、自我のない、単に公平であるような男などは、相手にしない ……(ニーチェ『この人を見よ』)