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2020年3月10日火曜日

雨乞い祈祷師

前回、こう引用したがね、平均気温、8.72度までがコロナウイルスはよく伝染する、高温多湿の場では伝染しにくい、ただしエビデンスは希薄等々。



Coronavirus ‘highly sensitive’ to high temperatures, but don’t bank on summer killing it off, studies say

The analysis indicated that case numbers rose in line with average temperatures up to a peak of 8.72 degrees Celsius and then declined.

“Temperature … has an impact on people’s living environments … [and] could play a significant role in public health in terms of epidemic development and control,” the study said.

It said also that climate may have played a part in why the virus broke out in Wuhan, the central China city where it was first detected.

Other experts, like Hassan Zaraket, an assistant director at the Centre for Infectious Diseases Research at the American University of Beirut, said it was possible that warmer, more humid weather would make the coronavirus less stable and thus less transmissible, as was the case with other viral pathogens.

“We are still learning about this virus, but based on what we know of other coronaviruses we can be hopeful,” he said.

As temperatures are warming up, the stability of the virus could decrease … if the weather helps us reduce transmissibility and environmental stability of the virus, then maybe we can break the chain of transmission.”

However, even if this were the case, the benefit would be greatest in areas that had yet to see widespread community transmission of Covid-19, he said.

Mike Ryan, executive director of the World Health Organisation’s health emergencies programme, also urged people not to assume the epidemic would automatically subside in the summer.

We have to assume the virus will continue to have the capacity to spread,” he said.

“It’s a false hope to say, yes, it will disappear like the flu … we can’t make that assumption. And there is no evidence.”



この「偽の希望」はある程度正しいんじゃないかね、日本では北海道だろ、イタリアでは南部ではなく北部だろ。等々。

日本は韓国よりは冬季であってもいくらか高温多湿だよ。



韓国の天気・気候を日本と比較!

ーーこのデータは2018年で今年はどうだかしらないが、傾向値としてはこうだよ。日本は3月になって平均気温が上がってるんだから、コロナ伝染速度はたいしたことないんじゃないか。

その反面、北ヨーロッパや北米はこの3月から4月が山場のはずだ。


次のものはいつのデータかわからないが武漢はこうらしい。



以上、非科学的精神の蚊居肢散人コロナ予測でした。日本人のみなさんは、「はやく暑くなれ」と願うと同時に「雨乞い祈祷師」になるべきだね。一度、貴船神社の雨乞祭に当たったことがあるが、そのあとすぐ降ってきたよ。






観測の精度を上げても、予測の精度がどこまでも向上するということはない。現実の世界は予想外を含むものである以上、因果律によって織られた「硬い現実主義」に対して、少なくとも「やわらかな現実主義」のほうが〝現実的″であることを示唆している。

リハビリテ-ションの領域においても、観測の精度を上げようと、多くのテストや計測を実施するのに比例して、予後や改善の予測の精度がどこまでも向上したり、介入すべき問題点がより明瞭になる訳ではない。むしろ、観察者のあらさがしの眼にさらされることによる対象者の心身の緊張が増すことの不利益が問題になることもあるのである。(中井久夫『隣の病い』)
一般に「不確実な事態に不確実な技術で対応する場合に呪術があり、確実に成功する技術に呪術はない」(マリノフスキー)。医療は明らかに前者である。方角で病院を決めても咎められることではない。医師も大手術の前には祈る。不祥事の続く病室をこっそりお祓いする・良質な抗体を得るコツはウサギに抗原を注射するとき、「よい抗体を作ってくれよな」と頼むことだとアメリカのマニュアルにあるそうである。こういうのは無害である。(……)

医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の印遠などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年『精神科医がものを書くとき』所収)
ラカンは『科学と真理』で強調している。科学による真理と知との共約不可能性を認知することの拒絶は、魔術や宗教よりもさらにいっそう根源的であると。

事実、宗教家は、「神が知っていることを知らない」ことを知っている。また文化人類学者が示したように、呪術師は、「己の行為の有効性が欺瞞的実践に依拠している」ことを知っている。 (ロレンツォ・キエーザ Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency '2010)

科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。(アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、2013)






怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
人は、こまやかさの欠如によって科学的となる。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)
ラブレーはこう言っている、《良心なき科学は魂の墓場に他ならない Science sans conscience n'est que ruine de l'âme 》。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃 ravages をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない n'existe pas。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった ça fout l'âme par terre !

あなた方は気づいていないだろうが、私が言いたいのは、科学は魂を全く役立たずにしてしまう ça la rend complètement inutileということだ。そう、真理をこの世界に露呈させる révéler la vérité au mondeとは、世界自体をこの世界へと露呈させることである c'est révéler le monde à lui-même。魂と同じように、世界も存在しないということになる il n'y a pas plus de monde que d'âme。(ラカン、S21, 19 Février 1974)