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2020年3月11日水曜日

分析家になる方法


ラカンは、時期により、私はヒステリーだ、私は強迫神経症だ、私は精神病だ、私は女だ等々と言っている。(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

ーーここでの「女」は、分析家ということである。

中井)……あの、診察している時、自分の男性性というのは消えますね。上手にいっているときは。ほんものの女性性が出るかどうかはわかりませんけど、やや自分の中の女性性寄りです。少なくとも統合失調症といわれている患者さんを診るときはそうですね。

鷲田)自分からそれは脱落していくのですか。

中井)いや、機能しない。まあ統合失調症の人を診た直後に非行少年かなんかを診たらもう全然だめなんです。カモられてしまう。(「身体の多重性」をめぐる対談 中井久夫/鷲田清一 『徴候・記憶・外傷』所収)


臨床場面以外でも、人が分析家aとして機能することはありうる。

われわれが無闇に話すなら、われわれが会議をするなら、われわれが喋り散らすなら、…ラカンの命題においては、沈黙すること faire taire が「対象aとしての声 voix comme objet a」と呼ばれるものに相当する。(ジャック=アラン・ミレール、«Jacques Lacan et la voix» 、1988)
分析家の言説において、動作主としての分析家は、論理的に a と表記される、いわゆる対象a として「他者」に直面する。この対象a は、欲動あるいは享楽に関係した残滓を示す。それは名づけ得ないものであり、欲望を活性化する。例えば、分析家の沈黙ーーそれは、相互作用における交換を期待している分析主体(被分析者)をしばしば当惑させるーー、その沈黙は対象a として機能する。

分析家は対象a のポジションを占めることにより、自由連想を通して、主体の分割($) が分節化される場所を作り出す。分析家は、患者の単独性にきめ細かい注意を払うために、患者についての事前に確立された観念と病理 (S2)を脇に遣る。こうして分析主体(被分析者)の主体性を徴す鍵となる諸シニフィアンが形成されうる。それは、分析家の対象a としてのポジションを刺激する。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis,2016,pdf)




※ラカンの言説理論の基本は、「「専門家の言説」は「中立的な言説」だろうか」を見よ。


このダイレクトな沈黙以外にも、たとえばソクラテスは分析家ではなかったか。


ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により、対話者の立場の非一貫性を露わにし、相手の立場を相手自らの言述によって崩壊させる。

ヘーゲルが女は《コミュニティの不朽のイロニーである》と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を「プロソポピーア」に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者は自らの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになる。そして彼らが自らの権威づけのありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威づけは崩れおちる。それはまるで、イロニーの無言の谺が、彼らの発話につけ加えられたかのようなのだ。その谺は、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫してしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。

この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? …神秘的な「パーソナリティの深層」はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。

⋯⋯)対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を、魔術的にプロソポピーアに変貌させる。彼の言葉を脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任」と呼んだ。

プロソポピーア Prosopopoeia とは、「不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法」と定義される。(……)ラカンにとってこれは発話の特徴そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの「言表行為の主体」と「言表内容の主体」とのあいだの区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、「私自身」が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は「間接的」である。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)


女性の方は、「コミュニティの不朽のイロニー」としての資質が男性よりずっとあるはずである。たとえば巷で正義やらデモクラシーやら差別反対やらとドグマティックに繰り返している男どもを「プロソポピーア」に陥れる機能を担ってこそ真の女性ではなかろうか?


フランス人はドイツ人やイギリス人よりはるかに悪い。…仏のナショナリズム、フランス人は(自由、平等、友愛の理念を実現した)唯一のデモクラシー的平等主義の国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。(『ジジェク自身によるジジェク』2004年、摘要訳)
善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)


最近では、とくにツイッターなどを垣間見ると、至高善の名の下に行使されるドグマを実践している似非女性が多いがーーとくに政治好きの女性にはことさらそれが目立つーー、はやくお悟りになって真の女性になられることを切に願う


「至高善 Souverain Bien」を基礎づける道徳の法は、…根源的な問題le problème radical 、悪の問題 le problème du mal である。(ラカン, S7, 16  Décembre  1959~13  Janvier  1960、摘要)
善は根源的・絶対的悪の仮面にすぎない。Good is only the mask of radical, absolute Evil…善の背後には根源的な悪があり、善とは「悪の別名」である。Behind Good, there is radical Evil: Good is "another name for an Evil"(ジジェク『斜めから見る』1991年)



一般には受け入れにくいだろうラカン派的な言説がお嫌いな方には、次のものでもよい。

社会の中に集合精神 esprit de corps その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬 ursprünglichen Neid から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義 Soziale Gerechtigkeitの意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求 Gleichheitsforderung こそ社会的良心sozialen Gewissensと義務感 Pflichtgefühls の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)
一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

要するにドクマティックな正義の言説を笑い飛ばすことこそ、女性的イロニーの力である。その力を通してのみ「真の正義」への思考がありうる。

ラカンを掠め読んでーーあるいは最悪の書「ラカニアンレフト」などに依拠して、ラディカルデモクラシーやらなにやら、さらにはいまだマルチチュードやらと言っている連中は、「ラディカル馬鹿」ーーシツレイ!ーーでしかない。

浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)

誰とは言わないでおくがね、まだとってもガキ連中だから。でもアレをまともに批判する若手がいないのは、日本言論界のとってもフコウだね、--「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄「菊池寛」)

繰り返し引用している文だが、最後にジジェクを再掲しておこう。これは日本でもまともな思想家だったらーーたとえば柄谷や浅田ーー当然この立場をかねてからとっている(浅田彰のマルチチュード訳は「有象無象」である)。


大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )
真の「非全体 pas-tout(a)」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )




私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ we should stop with this multitudes、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)