一つのシニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を代表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]。(ラカン、E840, 1960年)
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ラカン理論の華とされるもののひとつに四つの言説理論がある。標題に示した「専門家の言説」とはそのうちのひとつ、大学人の言説(知の言説)のことである。
大学人の言説に触れるまえに四つの言説の中心となる主人の言説についての簡潔な注釈を、ラカン自身からではなく、初期ジジェクから引こう。
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主人の言説では、一つのシニフィアン(S1)が、他のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために斜線を引かれた主体($)を代表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な残滓、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残滓aと「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(ジジェク『斜めから見る』1991 年)
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さて大学人の言説である。一般には大学人の言説と訳される「大学」とは、教育機関の大学とは関係がなく、むしろ専門知、教育の言説のほうがふさわしい。そしてラカンの「言説」とは、フーコー 的言説とは異なり、「社会的結びつき」という意味である。
以下の文は、上に引用した主人の言説の注釈の続きとしてある。 |
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大学人の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子供)[ "untamed" object (the "unsocialized" child)]に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見せかけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。(ジジェク『斜めから見る』1991 年)
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「飼い慣らされていない」対象に中立を装った知を伝播するのが、専門知の言説であるが、上にあるように抑圧された真理として支配欲=主人が隠蔽されている。これがラカンの考え方である。
上のジジェク 1991年の注釈とほぼ同様だが、確認の意味で、ジジェク 2004年も掲げておこう。 |
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大学人の言説は「中立的」知のポジションから発せられる。それは現実界の残滓に向けられ(言わば、学者ぶった知の場合なら、「未加工の、飼い馴らされていない子供[raw, uncultivated child]に向けられる)、その a を主体に変える(S2 → a → $ )。
大学人の言説の「真理」は、横棒の下に隠されているが、もちろん、権力、つまり主人のシニフィアンS1である。大学人の言説の構成的な虚偽は、その行為遂行的側面の否認である。実際上、権力を基盤とした政治的決断に帰するものを、事実に基づく状況への単純な洞察として提示してしまう[presenting what effectively amounts to a political decision based on power as a simple insight into the factual state of things.] (SLAVOJ ŽIŽEK. THE STRUCTURE OF DOMINATION TODAY: A LACANIAN VIEW, 2004)
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ーージジェクはここで「大学人の言説」の中立を装った専門知は、実際は政治的決断だと言っている。
さてどうだろう?
ここで次の問いを提出しておこう。現在紛糾しているコロナウイルスにかかわる専門家たちの一見「中立的な知」は、果たして本当に中立的な知なのだろうか、と。
人は(いかに専門家の言説が誠実に見えても)誤解してはならないのである。とくにいまだ未知の部分が多いコロナウイルスのような専門知の伝播ならなおさら。これが少なくともラカン派的な巷間の言説の受け取り方である。
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以下、ラカン研究のメッカのひとつベルギーゲント大学の精神分析家ポール・バーハウの、いくら異なった相からの大学人の言説の注釈をも掲げておく。
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大学人の言説において、知がエージェントのポジションを取る。…エージェントは構成された知である。他者はたんなる対象、欲望の原因a に還元される(S2 → a )。…隠された真理は、知を支える主人のシニフィアンである(S2/S1)。
どの知の領域でも主人の支えの恩恵によって機能する。たとえば我々の領域では、「フロイトがこう言った」「ラカンがこう言った」というのが主人の支えである。知と主人のシニフィアンとにあいだのこの関係における原初的な事例はデカルトにある。デカルトは彼の思考の正統性を保証するために神を必要とした。
他者のポジションには、喪われた対象、欲望の原因がある。この対象と徴示的連鎖のあいだの関係は、構造的に不可能な関係である。なぜなら対象はシニフィアンの彼岸にある要素だから。結果として、大学人の言説に生産物は、主体の絶え間なく増え続ける分割である。対象に到達しようと知を使用すればするほど、ひとは諸シニフィアンのあいだで分割される。そして自分の家、すなわち欲望の原因から遠く離れてしまう。(Paul Verhaeghe, FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES, 1995)
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そしてポール・バーハウの弟子筋に当たるStijn Vanheuleによる「四つの言説」それぞれの簡潔な注釈を続ける。
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上の四つの言説のそれぞれの最後にある「基礎構造」とは、各々の言説の基底にはこの構造があるという意味であり、最も基本的な読み方は次の通り。
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話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。
他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Serge Lesourd, Comment taire le sujet? , 2006)
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