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2020年3月8日日曜日

イキのいい韓国人とテニスが出来なくなった



最近、韓国人の連中がテニス場に訪れなくなった。

わたくしは週に2、3度、小一時間ほどテニスをする。近くの軍事施設敷地内にある樹々に囲まれた美しいコート4面で、主に早朝ときに夕暮れ、ダブルスのゲームをする。以前はほとんど毎朝やっていたが、数年前、腰を捻ってからは回数を減らした。妻は毎朝いく。彼女はとても巧くテニス場のスターである。女性ダブルスの百戦錬磨であり、大きな試合の優勝カップが30個以上ある。夫婦で組んだ混合ダブルスのカップも4つある。もともと(伊達公子のトレーニングメニューなどを参考にして)わたくしが仕込んだのだが、いまは到底かなわない。

プレイしているのはもちろん殆ど当地の人間だが、わたくしと韓国の若い連中4、5人の外国人が混じる。韓国の人たちは、近くの工業団地にあるとても大きな繊維企業の社員で、日本通運が下請けの事務所をその敷地内にもっているほどである。主によく名の知れた米国ブランド製品を米国向けに輸出している。

だがその彼らが来なくなった。

昼間、近くの韓国料理屋でうどんを食っていたら、彼らのうちの2人に会った。どうした?と英語で訊くと、曖昧な顔をしている。しばらくしてボソッと「居心地が悪いんです、最近」と言う。コロナウイルスである。韓国人の姿を見ると当地の人間が敬遠する素振りを見せる、--と感じてしまう場合が多いらしい。さもありなん。中国人だけではないのである。そうだろうと思っていたが、面と向かって言われると返す言葉に窮する。気にするなよ、とも言い難い。「そうか」と溜め息をつくようにしか応じられない。わたくしだって日本で今以上にウイルスが流行したら同じ憂き目にあうかも。もっとももう外見が当地の人間とほとんど変わりがないので、あれらイキのいい若いやつほどには異人感のない存在ではあるが。

ヨーロッパに住んでいる東洋人はもっとそうなのだろう。欧州人には中国人も日本人も韓国人もインドシナ人もそれほど区別がつかない。日本人が突然、殴られたなどという話もある。

危機が訪れれば、人権なんてこんなものである。彼らの差別意識を批判するのではない。もともと人間とはそういうものである。



差別意識
子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。 (ドリス・レッシング Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)
いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦(……)。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)


人種差別
「他者」に関して、われわれの神経を逆撫でし、苛々させるのは、他者がその享楽を作り上げるその(こちらからみると)奇怪なやり方である(食べ物の臭い、「騒がしい」歌や踊り、風変わりな身振り、仕事に対するおかしな姿勢、等々。(ジジェク『斜めから見る』1991年)
平凡なアメリカ人が、人気のない田舎をドライブしている。車が故障し、彼は助けを求めに、いちばん近くの小さな町へ行く。じきに彼は、その町では何か奇妙なことが進行していることに気づく。その町の人たちの振る舞いは奇妙で、どこか自分自身ではないような感じなのだ。やがて彼は、エイリアンがこの町を占領し、人間の身体に侵入し、植民地化して、内部からコントロールしていることを知る。エイリアンたちはまったく人間そっくりに見えるし、人間そっくりの行動をするのだが、ちょっとした細部(眼がおかしなふうに光るとか、指の間や耳と頭部の間に皮膚が余分についているとか)から彼らの正体がばれる。そのような細部がラカンの対象aである。些細な特徴がその持ち主を魔法のようにエイリアンに変身させてしまう。( ……)ここでは人間とエイリアンとの違いは最小限で、ほとんど気づかないほどだ。日常的な人種差別においても、これと同じことが起きているのではなかろうか。われわれいわゆる西洋人は、ユダヤ人、アラブ人、その他の東洋人を受け入れる心構えができているにもかかわらず、われわれには彼らのちょっとした細部が気になる。ある言葉のアクセントとか、金の数え方、笑い方など。彼らがどんなに苦労してわれわれと同じように行動しても、そうした些細な特徴が彼らをたちまちエイリアンにしてしまう。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年)
対象a=エイリアンの身体
異物 Fremdkörper のラテン語:エイリアンの身体 corpus alienum
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
対象a とは外密的である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
モノとしての外密 extimitéは、異物(異者としての身体corps étranger )のモデルである。(J.-A. MILLER, Extimité, 13/11/1985)


以下は1990年の話であり、米国も「父なき時代」極まりつつあり変貌しつつあるのだろうが、日本人においては(基本的には)いまだこういうことだと思ったほうがよいのではないか。島国日本、ムラ社会日本は30年たってもかわっていないようにみえる。


ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。(岩井克人)
柄谷)日本は、岡倉天心が『東洋の理想』で書いたように、アジアの諸文化・思想がどんどん入ってきて、排除もされず累積してきた貯蔵庫のようなところがある。もちろん、排除しないというのは、それ自体が排除の形態なので、つまりは、何の影響も受けないということです。アメリカもじつはそうです。しかし、実際の人間が来る。日本に来るのは文物だけです。たとえば、われわれにとって、中国はいうまでもないけど、インドの哲学とか芸術とか言えば、なにか懐かしいような感じ、われわれの一部であるような感じがあります。しかし、インド人がこの国に来たわけじゃないから、たんにイメージなんですね。

岩井)だからアメリカについて、石原慎太郎がアメリカをレイシズム(人種差別主義)と非難したけれど、あれは的が外れている。とくにアメリカの場合、まず当たり前のこととして、国内に多民族を抱えているでしょう。たとえばフランシス・フクヤマがいい例で、日系人やアジア系がかなりのパーセンテージいるわけだし、そんなに単純なかたちのレイシズムにはなれない。

柄谷)アメリカには現に多数のレイスが共存しているのだから、レイシズムは確かにあるし、陰では悪口を言うかもしれないけれど、けっして公言できませんね。たとえば、「ジャップ」とか言えないのは、日本人が抗議するからではなくて、日系アメリカ人がいるからです。ハワイみたいに、日系人が州知事をやってるようなところもあるわけです。

岩井)それから上院議員が二人ぐらいいますしね。アメリカ政府は戦時中の強制収容所の賠償金を日系人に支払いはじめましたね。これらの議員の尽力ですね。

柄谷)しかし、それじゃ日系人が、プロ・ジャパンかと言うと、そうではないわけですよ。

岩井)そう、全然ない。日系人だから賠償金に関する法律を通すんだというのではなく、一応アメリカ人として、戦時中のアメリカ人が本来の道義性を失った行為を同じアメリカ人にしたことの賠償だという論理を使ってね。

柄谷)だから、ああいう単純なレイシズム非難に対しては、日系人も怒ると思うんですね。レイシズムの一言ですむんだったら、戦後四十五年間の日系人の戦いはなかったことになるんですね。それは、アメリカ人としての、アメリカの理念のための戦いだったわけで、彼らはアメリカ人としての誇りを持っているわけですから。アメリカ人が日本人を人種差別しているという単純な言い方に対しては、むしろ彼らが怒ると思うな。それだったら、日本人のほうがはるかにレイシストですからね。

岩井)ぼくは日本人は百パーセント、レイシストだと思いますよ。日本のコマーシャルに典型的に出てくるあの白人崇拝というのが、逆方向のレイシズムでしょう。アジア蔑視、白人優越主義の裏返しですよね。もちろん、いろいろな肌の色の有名人も出ますけれど、それは有名人だからなんです。つまり下士官根性の現われなわけですよね。上に媚びて、下に威張るというね。明治以来、日本は常にそうだったと思うんですね。そして、それと同時に、白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。(柄谷行人 岩井克人対談集『終わりなき世界』1990)