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2020年3月17日火曜日

侵入されたのだから、いくらか暴力的になるのは当然


これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」)

過去の性的虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)


ちょっとわかった気がするよ、ときにみられる怒りの暴発の理由が。ダイレクトな性的虐待ではないようだけど、散々な目にあったんだな。


「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然
治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)




ある程度はやむえないんだろうな、でも嗜癖化しないように気をつけなくちゃな


「踏み越え」について
中井久夫 2003年
「はじめに」
「踏み越え」transgression とは、あまり聞きなれない言葉かと思う。しかし、オクスフォード辞典(OED)によれば、15世紀から「法やルールの埒外に出る」という今の意味で、心理学よりも法学のほうで使われてきたようである。お馴染みの「リグレッション」(退行)「プログレッションン」(前進)と同系列の言葉であるが、「トランス」は「越えて向こうへ」という意味であるから「踏み越え」と訳しておく。私の意味では、広く思考や情動を実行に移すことである。知情意を行動化するということか。抽象的に言えば「パフォーマンスのモード」の切り替えと定義してよかろう。
その逆は「踏みとどまり」holding-on である。実行に移さないように衝動に耐えて踏みとどまることである。

今にはじまった問題ではないし、私が何らかの明快な答えを与えるわけではない。ただ、踏み越えは現在無視できない重要性を持っているのではないかという問題提起をしておきたい。21世紀になって個人から国家まで、葛藤の中で踏みこたえるよりも踏み越えるほうを選ぶ傾向が目立つ。テロとテロへの反撃という国家社会的政治水準から個人の非行まで、その例は枚挙に遑がない。さらに「踏み越え」がプラスの意味を持ってきた。「改革」「ビッグバン」「IT革命」である。これらは長期的には有効性が期待値より低いおそれがあるのだが、そのことは軽視されている。フランス、ロシアの二大革命の末路から人は多くを学ばない。ロシア革命を否定してフランス革命が無傷で済むだろうか。革命の血を血で洗う中からナポレオンが出てきて、革命を外征にかえた。どれだけのフランス人、欧州人が非命に倒れたか。私の精神的な師の一人、アンリ・エランベルジェ先生が「個々の戦争犯罪だけでなく戦争をも犯罪学の対象としなければならない」といわれるのももっともである。幸か不幸か私は戦争の世紀である二十世紀の一九三四年に生を享けた。当時、一九○四年から一九〇五年の日露戦争は「このあいだの戦争」であった。戦争参加者はまだ四十歳代から六十歳代だったのである。(……)
行動化の効用と嗜癖化
事後的な言語化の意味と効用について述べたが、皮肉なことに、行動化自体にもまた、少なくともその最中は自己と自己を中心とする世界の因果関係による統一感、能動感、単一感、唯一無二感を与える力がある。行動というものには「一にして全」という性格がある。行動の最中には矛盾や葛藤に悩む暇がない。時代小説でも、言い争いの段階では話は果てしなく行きつ戻りつするが、いったん双方の剣が抜き放たれると別のモードに移る。すべては単純明快となる。行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。

行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。

DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

ちなみに、賭博も行動化への直行コースである。パチンコはイメージとも言語化とも全く無縁な領域への没入であるが、パチンコも通常の「スリル」追求型の賭博も、同じく、イメージにも言語化にも遠い。(……)
「踏み越えによる犯罪」
すべての犯罪が定義上「踏み越え」によるものであるとはいえ、最近の犯罪あるいは非行において、事故学的犯罪と対照的に、「踏み越え」の比重が非常に大きくなってきたという仮定のもとに考察を進める。

「踏み越え」をやさしくする条件を挙げてみよう。

(1)「踏み越え」に対する倫理的な障壁が低くなっていること。例えば、万引きに窃盗という認識、ひったくりに強盗という認識がなく、それに相当する倫理的障壁がない(逆に「立ち小便」に対する心理的障壁は五十年前にはない気に等しかったが、現在では高くなっている)。倫理的障壁はほとんど生理的であって、立ち小便は行おうとしてもなかなか尿が出ないのが普通である。強姦の際に勃起するのはごく一部の男性であろうと思えてならない。暴力をふるう時には勃起できないのが生理的に順当だからである。射精に至っては交感神経系優位性が副交感神経系優位性と急速に交代しなければならず、それが暴力行為の最中に起こるのは生理学的に理解しがたい。しかし、そういう男がありうるのは事実で、古典的な泥棒は侵入してまず排便したというが、それと似ていようか。

(2) 倫理には当然社会的側面もある。尊敬できる家族、先人、友人などが存在するか否かが大きい。家族などが例えば暴力などの侵犯への「踏み越え」を実演するなかで育つことは当然侵犯への敷居を低くする。また、自殺や離婚は、通常、踏み越えに思案を要するものの代表であるが、身近に自殺、離婚の例がある場合、行き詰まりの解決法として思いつきやすく選ばれる確率が高くなる。犯罪もまた同様。

(3) 問題解決への選択肢が少ないこと。イメージ化がうまくできないこと。無人島に行ったら何を持ってゆき、何をするかという「無人島物語」では、非行少年や家庭内暴力少年は思いつくものが少ない傾向があることを私は経験している。知的に普通と思われる少年なのに島ですると思いつくことが瑣末的なこと一つであった例がある。なお、私の経験では、箱庭で全くの模倣テーマ、たとえば「宝塚遊園地」を造るのは非行少年、特に嗜癖少年であった。これは極端例であるが、選択肢の少なさはかなり一般にいえるそうである(東京家裁主任調査官・藤川洋子による)。選択肢がわずかしかない人ほど、踏み越えが簡単であるはずである。手近な選択である嗜癖にもなりやすいだろう。

(4) 侵犯が見逃され、放置され、処罰されないこと。犯罪の最大の防止策は速やかな発見と検挙である。ニューヨークの地下鉄でも、わが国の大学でも、落書きをただちに消すことによって、落書きだけでなく、さまざまな侵犯の低下を見みている。

(5) 「踏み越え」を容易にする手段が卑近なところにあること。米国の殺人率の多さは銃規制がほとんど行われていないことによる。わが国の場合、実に卑近なことであるが、包丁が鋭利になったことがあると私は思う。 第二次大戦前の、拳銃による政治家暗殺も、ほとんどすべて銃ごと体当たりをすることによったものである。その伝統は包丁にそのまま継がれている。旧軍では、日本人はピストルの速距離射撃が下手といわれてきた。一九九五年の国松警察庁長官狙撃(四発全弾命中)は例外中の例外である。

(6)「踏み越え」を容易にする制度を経験すること。これは、多くの軍隊が行うところである。一般兵士の「発砲率」は国によらず十五ー二十パーセントと低かった。第二次大戦後、米陸軍は心理学的工夫によって朝鮮戦争において五十五パーセント、ベトナム戦争において実に九十五パーセントの発砲率を達成している。その副作用は、帰還兵が社会適応不可能となったことである。わが国では、会社、官庁における不正の黙認が挙げられようか。

わが国では、現在、当人の書面による承諾なくして事実上誰にでも生命保険をかけられるという制度的欠陥も、多くの踏み越えを容易にしている。

(7) 「踏み越え」を容易にするイデオロギーの存在。いわゆる大義が代表的なものであるが、必ずしも直接の踏み越えに関するものでなくてもよい。一般に二十世紀においては、マルロー、ヘミングウェイ、サン=テグジュベリら、「行動」を「思考」や「葛藤」よりも優位に置く作家の影響力が強くなり、登山、航海において不可能とされたことが次々に実現していった。ちなみにマルローの出世作『王道』は、カンボジャの文化遺産を盗みにゆく話である。

行動化は、自分に代ってやってくれる代理者によってもある程度満足される。サッカーや野球で選手やチームに同一化することによって、日常の心配や葛藤は棚上げにできる。この場合も含めて、行動化は、究極的に言語化・イメージ化できないものが多い。犯罪とは限らない。スポーツはもちろん、食や性でも言語を超えた部分がある。というか、言語、イメージを越えないと、何か欠けたものがあると感じられる。一般に言葉だけでは飢餓感が残る。謝罪の例がそれである。状況だけが言葉の不足感を救う。

(8) 行動をともにする仲間の存在。少年強盗の統計上の最近の増加には、集団でのひったくり、かつあげによる分が、相当に含まれている。一件七、八人ということが少なくない。

(9) ヴァーチャル・リアリティによる「踏み越え」の見聞と実体験。生まれた時すでにテレビが存在した世代の心理には、私の世代の心理と違う何かが感じられる。しかし、テレビは家族などの集団で見て対象化・客観化が可能である。テレビゲームを初めとするヴァーチャル・リアリティは孤独のなかで行われ、場の中に入り込み、かつ自分が不利な時にはリセットが可能である。

(10) 抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。

(11) うかうかとでも、とにかく「やってしまった」という事実が、その後の踏み越えをぐっとやさしくすることは多いだろう。「どうせおいらは」というわけである。「濡れないうちは露をも避けるが、濡れてしまえば川の中にでもずかずか入ってゆく」という古くからの喩えは、非常に理解しやすい心理である。

(12) 自尊心の低さと弱さ。例えば、忍ぶ恋がストーカーになり下がる過程のどこかで、自尊心がぐっと低下する体験があるのではないか。もっとも、ストーカーには、現実の不可能を強引に擬似的可能にしようという点で、「現実の不可能を非現実の可能にする」という妄想と紙一重のところがある。

ストーカーに限らない。どういう人にせよ、プライドのない人間ほど始末におえない者はない。精神科医は、患者の自尊心を大切に守る必要がある。個々の病院によって大きな差があるが、精神科病院が自尊心を失う場になってはならないと思う。さまざまな矯正施設においても重要なことである。

(13)被害者がはっきりしない場合。収賄も、遠距離砲撃の場合も、これである。陸軍に比べて海軍がスマートに見えるのは殺戮が見えないからである。

変数は以上の悪魔の一ダース(十三) に尽きないであろう。また、今後、踏み越えをやさしくする条件が増加するおそれがあり、精神医学、心理学、犯罪学の大きな主題となってゆく可能性が少なくないと私は思う。(……)
踏み越えと踏みとどまりの非対称性
不幸と幸福、悪(規範の侵犯)と善、病いと健康、踏み越えと踏みとどまりとは相似形ではない。戦争、不幸、悪、病い、踏み越えは、強烈な輪郭とストーリーを持ち、印象を残し、個人史を変える行動化で、それ以前に戻ることは困難である。規範の侵犯でなくとも、性的体験、労働体験、結婚、産児、離婚などは、心理的にそれ以前に戻ることがほとんど不可能な重要な踏み越えであるといってよかろう。

これに対して、踏みとどまりは目にとまらない。平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでという期限がないメインテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。テレビの番組は、その反対物にみちみちている。そうでないものもあるが、その多くは印象が薄いか、わざとらしい。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。(聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったかもしれない。踏み越えは、通過儀式という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性は時に紙一重である。それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治ったような気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分の中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。

サリヴァンは、 前青春期体験を、これらすべてに括抗する人間的体験とした。今、前青春期は、あるとしても息も絶え絶えである。成人の幸福なパートナー体験もさまざまな形で脅かされている。わが国のこの半世紀においては、社会的上昇の努力が幸福と結びつくとされていたが、もとより、それは幻想であり、今は幻滅の時代である。行動化への踏み越えをどうするかが、今後ますます心理臨床を悩ます問題となりそうである。

ウィニコットは、子どもの憎たらしさに耐えて、将来報いられると思えるのを「ほどよく良い母親」とした。大平健によれば、今の「やさしさ」は「何もしないという思いやり」で、侵入されたくない気持ちと対になっている。子どもは「やさしい」ばかりでなく、すごい泣き声を挙げて侵入する「やさしくない」存在でもある。その時の顔はいかにも憎々しい。昔の子守歌にも「寝る子のかわいさ、起きて泣く子の面憎さ」とあるとおりである。ウィニコットは、それを否認せずにわが子を世話できる母親をよしとしているのだが、今、いかなる意味でも「将来報いられる」期待をいうことができるだろうか。
「自己コントロール」について
私たちは「踏み越え」への心理的傾斜に逆らって「踏みとどまる」ために、もっぱら「自己コントロール」を説く。もとより、「自己コントロール」の重要性はいくら強調してもしたりないぐらいである。しかし、私たちは、「自己コントロール」を容易にし、「自己コントロール」が自尊心を増進し、情緒的な満足感を満たし、周囲よりの好意的な眼差しを感じ、社会的評価の高まりを実感し、尊敬する人が「自己コントロール」の実践者であって、その人たちを含む多数派に自分が属することを確信し、また「自己コントロール」を失うことが利益を生まないことを実際に見聞きする必要がある。
自己抑制をしている人が嘲笑され、少数派として迫害され、美学的にダサイと自分も感じられるような家庭的・仲間的・社会的環境は、「自己コントロール」を維持するために内的・外的緊張を生むもので、長期的には「自己コントロール」は苦行となり、虚無感が忍び寄って、崩壊するであろう。戦争における残虐行為は、そういう時、呆れるほどやすやすと行われるのではないか。

もっとも、そういう場は、短期的には誰しも通過するものであって、その時には単なる「自己コントロール」では足りない。おそらく、それを包むゆとり、情緒的なゆるめ感、そして自分は独りではないという感覚、近くは信頼できる友情、広くは価値的なもの、個を越えた良性の権威へのつながりの感覚が必要であろう。これを可能にするものを、私たちは文化と呼ぶのではあるまいか。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)




ネットでの言葉の断片を掠め読みしただけでーーしかも臨床家でないものがーー何が言えるものでもないけれど、「イジメすぎて反省してる」ってぐらいは言っておくよ。

で、こうも付け加えておこう。



外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー、一つの方針」初出2003年)