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2020年3月17日火曜日

欲望のデフレ


①私は私の大他者 my Other が欲望するものを欲望する。
②私は私の大他者 my Other によって欲望されたい。
③私の欲望は、大きな大他者 the big Other ーー私が組み込まれた象徴領野ーーによって構造化されている。
④私の欲望は、リアルな他のモノ real Other‐Thing の深淵によって支えられている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012年)

④のリアルな他のモノ real Other‐Thing(リアルな大他者-モノ)とは喪われた対象=モノのこと。

他のモノはフロイトのモノ das Ding であるautre chose est das Ding, (ラカン、S7、16 Décembre 1959)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)


そしてモノとは、結局、享楽(あるいは享楽の対象=穴=去勢)のことである。

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

モノのより詳細は、「モノ=斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」を見よ。






◼️文献列挙(前期ラカンから後期ラカン、つまり欲望のラカンから享楽のラカンへ)。

欲望は大他者の欲望
人間の欲望は承認欲望(承認されたいという欲望)である。Le désir même de l'homme […], il est désir de faire reconnaître son désir. (ラカン、E181、1946年)
主体の無意識は他者の欲望である l'inconscient du sujet soit le discours de l'autre, (ラカン、ローマ講演、E265, 1953年)
無意識は大他者の欲望である L'inconscient, c'est le discours de l'Autre (Lacan, E16、1956年)

人間の欲望は大他者の欲望である。Le désir de l'homme est le désir de l'Autre(ラカン、E628、1960年)
無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage (ラカン、S11、22  Janvier  1964)
欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)
欲望は享楽に対する防衛
欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E853、1964年)
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller、 L'économie de la jouissance、2011)
モノ=喪われた対象=享楽
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
享楽は現実界にあるla jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER,2/2/2011)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
享楽=去勢=穴=現実界
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
疑いもなく、最初の場処には、去勢という享楽欠如の穴(享楽喪失の穴)がある。Sans doute, en premier lieu, le trou du manque à jouir de la castration. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
現実界は…穴=トラウマを為す。 le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )
核心は「欲望は大他者の欲望」ではない
「欲望は大他者の欲望」は、欲求 besoin との相違において、欲望 désir は、言語作用の効果だということを示す。…この意味で、言語の場としての大他者は、欲望の条件である。…しかし、私たちが各々の話し手の欲望を道案内するもの、精神分析家に関心をもたらす唯一のものについて話すなら 「欲望は大他者の欲望ではない le désir n'est pas désir de l'Autre」。

欲望の原因は、フロイトが、原初に喪失した対象 [l’objet originairement perdu]」と呼んだもの、ラカンが、欠如しているものとしての対象a[l’objet a, en tant qu’il manque]と呼んだものである。 (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013)
核心は「言語のように構造化された無意識」ではない
ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…

言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現 une émergence de jouissanceである 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)
欲望のデフレ
私はラカンの教えによって訓練された。存在欠如としての主体、つまり非実体的な主体を発現するようにと。この考え方は精神分析の実践において根源的意味を持っていた。だがラカンの最後の教えにおいて…存在欠如としての主体の目標はしだいに薄れ、消滅してゆく…

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在の欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。…

ラカンの教えにおいて…「欲望のデフレune déflation du désir」があるのである。(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)
存在欠如から享楽欠如へ
ラカンは最初には「存在欠如 le manque-à-être」について語った。(でもその後の)対象a は「享楽の欠如」であり、「存在の欠如」ではない。(Colette Soler at Après-Coup in NYC. May 11,12, 2012)
parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在êtreである。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)
主体は、存在欠如である être manque à être 以前に、身体を持っている。そして、ララングによって刻印されたこの身体を通してのみ、主体は欠如を持つ。分析は、この穴・この欠如に回帰するために、ファルス的意味を純化することにおいて構成される。これは、存在欠如ではない。そうではなくサントームである。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE 」2016)

◼️ 補足
ララング≒サントーム
サントームは母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)
ララングlalangueは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の言葉[lalangue maternelle)]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。
ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。
il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)









享楽とは厳密にいえば、自己身体の享楽=サントームの享楽la jouissance du sinthome[参照のことであり(フロイトの自体性愛=自己身体エロスAutoerotismus) 、ラカン的にはこれが自閉症的享楽である(DSMの自閉症とは異なることに注意[参照])。

自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet。そして「主体」という語は引用符で囲まれなければならない、疑いもなく「言存在parlêtre」という語の場に道を譲るために。 (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。…サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽を示す。

le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu.[…] Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)





※付記


症状は嘘、愛は嘘
症状は現実界についての嘘である。症状は、性関係はないという現実界についての特化した嘘である。Le symptôme  est un mensonge sur le réel. Le symptôme est un mensonge sur le réel parce qu'il est spécialement un mensonge sur ce réel que le rapport sexuel n'existe pas. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses Comités d'éthique, 18/12/96)
愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。……「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実、これは(症状としての愛の根にある)現実界的条件である。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
唯一の真理=話す身体の享楽
真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

すべてが仮象(見せかけsemblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
話す身体=自ら享楽する身体=自体性愛=性関係はない
身体の実体は「自ら享楽する身体」としてのみ定義される。Substance du corps, à condition qu'elle se définisse seulement de « ce qui se jouit ».  (ラカン, S20, 19 Décembre 1972)
「自ら享楽する身体」とは、フロイトが自体性愛と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。il s'agit du corps en tant qu'il se jouit. C'est la traduction lacanienne de ce que Freud appelle l'autoérotisme. Et le dit de Lacan Il n'y a pas de rapport sexuel ne fait que répercuter ce primat de l'autoérotisme. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, - 30/03/2011)
ラカンが導入した身体は…自ら享楽する身体[un corps qui se jouit]、つまり自体性愛的身体である。この身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール・ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)