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2020年4月22日水曜日

さまざまの事おもひ出すちょっと縛ってかな


露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。
「縛って」
その声が、彼をかえって冷静に戻した。
「やはり、その趣味があるのか」
京子は烈しく首を左右に振りながら、言った。
「腕を、ちょっとだけ縛って」
畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣があり、その傍に寝衣の紐が二本、うねうねと横たわっている。
京子の両腕は一層強力な搾木となる、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)





「ちょっとだけ縛って」ーーその気のない男は、女に唐突にこう言われたら狼狽するはずである。

夏目漱石の『三四郎』の冒頭近くにとても印象的な叙述がある。九州から上京の折、車中で知り合った女に請われてともに過ごした名古屋の宿での一夜の翌朝の別れ際、女に、「あなたは度胸のない人ですね」と言われる話だ。少年時代に『三四郎』を読み、こういう目にだけは合わないようと願ったものだが・・・さまざまの事おもひ出すちょっと縛ってかな

女は名古屋に着いたら《名古屋へ着いたら迷惑でも宿屋へ案内してくれ》と言い出す。夜も更けて《気味が悪いからと言って、しきりに頼む》。三四郎も不案内の土地である。《ただ暗い方へ行った。女はなんともいわずについて来る。すると比較的寂しい横町の角から二軒目に御宿という看板が見えた》。女に相談したらここでいいと言う。《上がり口で二人連れではないと断るはずのところを、いらっしゃい、――どうぞお上がり――御案内――梅の四番などとのべつにしゃべられたので、やむをえず無言のまま二人とも梅の四番へ通されてしまった。》そして、三四郎は《下女が茶を持って来て、お風呂をと言った時は、もうこの婦人は自分の連れではないと断るだけの勇気が出なかった。》しかたなしに《お先へと挨拶をして、風呂場へ出て行》き、《風呂桶の中へ飛び込んで》思案する、《こいつはやっかいだとじゃぶじゃぶやっていると、廊下に足音がする。》

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。(『三四郎』)

《下女が床をのべに来る》のだが《広い蒲団を一枚しか持って来ない》。三四郎は《床は二つ敷かなくてはいけない》と頼むのだが《部屋が狭いとか、蚊帳が狭いとか言ってらちがあかない》。女が戻って来る。《どうもおそくなりましてと言う》。蚊帳の影で何かしている。《がらんがらんという音》がする。どうやら子供のみやげの玩具が鳴った音らしい。

蚊帳の向こうで「お先へ」と言う声がした。三四郎はただ「はあ」と答えたままで、《敷居に尻を乗せて、団扇を使》い、《いっそこのままで夜を明かしてしまおうか》とも思うが《蚊がぶんぶん来る。外ではとてもしのぎきれない》。

それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。(『三四郎』)




元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(…)

どうも、ああ狼狽しちゃだめだ。学問も大学生もあったものじゃない。はなはだ人格に関係してくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。なんだか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具にでも生まれたようなものである。けれども……(夏目漱石『三四郎』)