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2020年4月27日月曜日

プルーストとフロイトの無意識は異なるのか


プルーストの『失われた時を求めて』は、彼自ら繰り返し強調しているように核心は無意識の小説である。

われわれは、自分のすべての記憶を、自分に所有している。ただ、記憶の全部を思いだす能力をもっていないだけだ、とベルグソン氏の説にしたがいながら、ノルウェーのすぐれた哲学者はいった(……)。しかし、一体われわれが思いださない回想とはなんであろう?  

Nous possédons tous nos souvenirs, sinon la faculté de nous les rappeler, dit d'après M. Bergson le grand philosophe norvégien... Mais qu'est ce qu'un souvenir qu'on ne se rappelle pas? (プルースト「ソドムとゴモラⅡ」)
私の作品はたぶん一連の 「無意識の小説 Romans de l'Inconscient」 の試みのようなものでしょう。(……)「ベルクソン的小説」というのは正確さを欠く言い方になるでしょう。なぜなら私の作品は、無意志的記憶(mémoire involontaire)と意志的記憶(mémoire volontaire)の区別に貫かれていますが、この区別はベルクソン氏の哲学に現れていないばかりでなく、それと矛盾するものでさえあるからです。 (Interview de Marcel Proust par Élie-Joseph Bois, parue dans le journal “Le Temps” du 13 novembre 1913)
これは極めて現実的な(リアルな)書 livre extrêmement réel だが、 「無意志的記憶 mémoire involontaire」を模倣するために、…いわば、恩寵 grâce により、「レミニサンスの花柄 pédoncule de réminiscences」により支えられている。 (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
私は作品の最後の巻――まだ刊行されていない巻――で、無意識の再回想(ressouvenirs inconscients) の上に私の全芸術論をすえる 。(Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)

レミニサンスという語は、最近の訳者はそのままのことが多いようだが、最初の全訳者井上究一郎は「無意識的な回想」と訳している。

彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのない無意識的な回想 réminiscences confuses にふけっていた…戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった。(プルースト「ソドムとゴモラⅡ」 井上究一郎訳)



もっともプルーストの無意識とは、一般的に誤解されて流通しているフロイトの無意識ではない。

フロイトには「二種類の無意識」がある。


システム無意識(原抑圧)/力動的無意識(抑圧)
フロイトは、「システム無意識 System Ubw あるいは原抑圧 Urverdrängung」と「力動的無意識 Dynamik Ubw あるいは抑圧された無意識 verdrängtes Unbewußt」を区別した(『無意識』1915年)。

システム無意識 System Ubw は、欲動の核の身体の上への刻印(リビドー固着Libidofixierungen)であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、原初の過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識 Dynamik Ubw は、「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的加工を表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれを「無意識の後裔 Abkömmling des Unbewussten」(同上、1915)と呼んだ。この「無意識の後裔」における基盤となる無意識 Unbewusstenは、システム無意識 System Ubwを表す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics、2004年)


自由連想あるいは徹底操作durcharbeitenの対象である力動的無意識は「無意識の後裔」に過ぎない。だが臨床的にはこれがフロイトの「無意識」と認知されているのである。

原抑圧という語が直接的に現れるのは、1915年の『抑圧』論文が初めてだが、フロイトにはそれ以前に原抑圧に相当する概念がふんだんにあるにもかかわらずである。たとえば『夢判断』の最後に現れる「夢の臍 Nabel des Traums」「菌糸体 mycelium」「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」はすべて原抑圧にかかわる。『症例ドラ』に現れる「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」もそうである。

だがこの原抑圧の無意識(システム無意識)は忘れられてしまった。

フロイト以降、原抑圧概念は全く忘れられるつつある。証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現以前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, DOES THE WOMAN EXIST?、 1997)



ラカン語彙も含めて示せば、現在に至るまで、巷間の批評家や思想家、文学者はもちろんのこと、フロイト学者でさえ次の図の左項の無意識しか視野に入れていない場合がほとんどだが、フロイト の核心の無意識(欲動の根 Triebwurzel)、そしてプルーストの無意識は右項目語彙群の無意識の審級にある。




上段は、下段のミレール2005にわたくしが付け加えた項である。左項が抑圧の無意識、右項は原抑圧の無意識だが、右項は排除の無意識としてもよい。

抑圧は排除とは別の何ものかである。Eine Verdrängung ist etwas anderes als eine Verwerfung. DER WOLF MAN (フロイト『ある幼児期神経症の病歴より』(症例狼男)1918年)

ーーここでの抑圧とは言語の内部で「脇に置く」ということである(脇に置いて、その場には別の内容が圧縮 Verdichtungや置換 Verschiebungとして置かれる)。

他方、排除とは言語の外部(象徴界外)に「放り投げる」ということである。エスのなかに、あるいは現実界のなかに放り投げる。

以下、中井久夫による注釈を掲げて補足しよう。

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

この放り投げられたものが「異物」として無意識のエスの反復強迫を引き起こす。

自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

これは事実上の外傷神経症である。「事故的」外傷神経症も同様の機制でありながら、重要なのはむしろ身体の欲動にかかわる「構造的」外傷神経症である。

トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

中井久夫はこの異物を《語りとしての自己史に統合されない「異物」》と表現している。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


解離=排除の注釈に戻ろう。

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。

⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

言語以前とあるが、「身体的なもの」ということである。これが異物Fremdkörperーー「異者としての身体」ーーである。プルーストにおけるマドレーヌの味、石段の窪み、ナプキンの感触、フォークの音、数々の匂等、これらの身体の記憶の再復活が、言語外ゆえにこそーーラカンの定義では言語外=トラウマであるーーー反復する。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )



結局、『無意識の発見』で名高い精神医学史家エランベルジュが言うプルースト的精神医学がフロイトの無意識の核心である(もっともエランベルジュもフロイトの2種類の無意識を十分には把握していない)。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。(……)

先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)

プルーストの無意識は「心の間歇」という表現が核にある。何よりもまず母をモデルとした死後一年後の祖母に対する悲哀発作ーー靴を脱ごうとして突然襲われた無意志的記憶の再起。これが排除の無意識の回帰の機制とほとんど等価なのである。

プルースト的精神医学といえば、まず「心の間歇」と訳される intermittence du cœur が頭ん浮かぶだろう。『失われた時を求めて』は精神医学あるいは社会心理学的な面が大いにあり、社交心理学ないし階級意識の心理学など、対人関係論的精神医学を補完する面を持つにちがいないが、著者自身が小説全体の題に「心の間歇」を考えていた時期があることをみれば、まず、この概念を取り上げるのが正当だろう。フロイトの「抑圧」に対して「解離」を重視するのがピエール・ジャネにはじまる十九世紀フランス精神医学である。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007)

《フロイトの「抑圧」に対して「解離」》とあるが、この解離としての排除が原抑圧の無意識である。もっともラカンによるフロイトの原抑圧の捉え方は何種類かあるので注意しなければならない。

父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)

初期ラカンの「父の名の排除が精神病を生む」とは、事実上、ラカンの寝言であった。遠慮して言えば、本来的な排除の意味合いにおけるひどく限定された捉え方に過ぎなかった。

これはジャック=アラン・ミレールの注釈を受け入れるなら必ずそうなる。

「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による力動的無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)
精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
ーーより詳しくは、「ラカンマテームの読み方」を参照のこと。

父の名の排除ばかり強調した当時のラカン は、いまだフロイトの排除を十分に読み込めていなかったのである。 肝腎なのは上に引用した1976年のラカンが言う「別の排除 autres forclusions」である。
現代ラカン派では、この「別の排除」を、人間が誰しももつ排除として「一般化排除 la forclusion généralisée」と命名している。

リビドー固着によるエスのなかへの身体的なものの置き残しがこの「一般化排除」あるいは「一般化排除の穴 trou de la forclusion généralisée」(Ⱥ)である。この排除をラカンは外立とも呼んだ。

享楽は外立する la jouissance ex-siste (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)
外立の現実界がある il a le Réel de l'ex-sistence (Lacan, S22, 11 Février 1975)
原抑圧の外立 l'ex-sistence de l'Urverdrängt (Lacan, S22, 08 Avril 1975)



そしてこれがプルーストの心の間歇と「メカニズムとしては」相同的なものなのである。

「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…

解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)
遅発性の外傷性障害がある。(……)これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』)

もっともプルーストのレミニサンスには喜ばしい外傷性記憶の回帰もある。これも中井久夫が注釈している。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)


以上、中井久夫の実に優れた注釈群を掲げたが、これは何も中井久夫だけの手柄ではない。たとえばドゥルーズは彼の1960年代の後半の仕事で、ニーチェの永遠回帰、フロイトのタナトス(反復強迫)、プルーストの無意志的記憶の回帰を結びつけている。



『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの l'involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの force à penser、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章、第2版、1970年)

ドゥルーズはこの強制という語を使って、「強制された運動」あるいは「強制された運動の機械」という表現を導き出し、無意志的記憶(の回帰)をタナトスと永遠回帰とほぼ等置している。

強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」の章、第2版 1970年)
強制された運動 le mouvement forcé …, それはタナトスもしくは反復強迫である。c'est Thanatos ou la « compulsion»(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー、1969年)
エロスは共鳴 la résonance によって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能l'instinct de mortに向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶 mémoire involontaireのエロス的経験の彼岸に、その輝かしい核を見出す)。

プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去のそれ自体のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort qui aboutit à l'éternité du retour dans le tempsの形式である。(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)



しかもドゥルーズは原抑圧、固着(事実上の原抑圧)という語彙をフロイトから抽出しつつ上のように言っているのである。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』「序」1968年)
トラウマ trauma と原光景 scène originelle に伴った固着と退行の概念 concepts de fixation et de régression は最初の要素 premier élément である。…フロイトののコンテキストにおける「自動反復automatisme」 という考え方は、固着された欲動の様相 mode de la pulsion fixée を表現している。いやむしろ、固着と退行によって条件付けられた反復 répétition conditionnée par la fixation ou la régressionの様相を。(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)


記述としては1960年代のことゆえ完璧ではないが、上に示されている自動反復automatisme」 が現代フロイトラカン派における核心である。


後期ラカンの鍵
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)
フロイトにとって症状は反復強迫 compulsion de répétition に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫la compulsion de répétition du ça inconscient.に見出されると。フロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動要求の絶え間なさを常に示している。欲動は「行使されることを止めないものであるne cesse pas de s'exercer」. (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)
われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)
この欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


驚くべきなのは、わたくしがウエブ上でいくらか検索してみた限りでだが、ドゥルーズがあのように示して既に50年になるのに、日本だけでなく世界的にもドゥルーズ研究者はこの相にいまだ不感症なことである。もっとも精神分析の世界でも一部のラカン派をのぞいて原抑圧についてはいまだひどく怪しいのだから、ドゥルーズ研究者にこの固着としての原抑圧を把握せよ、というのは現時点においては多くをもともすぎかもしれない。

…………

※付記

永遠回帰と反復強迫が相同的なものであるだろうことは、フロイトが既に指摘している。

トラウマの刻印による反復強迫=永遠回帰
同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれは(ニーチェの)「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…この運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなもの(反復強迫Wiederholungszwang)については、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
幼児期の「病因的トラウマ ätiologische Traumen」は…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)

自己身体の上への出来事=不変の個性刻印とは、ニーチェからなら、たとえば次の二文に相当する。

人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)

この「傷つけることを止めない」かつ「常に回帰する自己固有の出来事」が、ラカン の現実界の症状(サントーム)である。

症状は現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 1974)
症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である。享楽=身体の出来事はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 la jouissance est un événement de corps […]la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

偉大なニーチェ読みの2人も既にこう言っている。

力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。(…)しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


クロソウスキーの言うように、力への意志こそ、永遠回帰でありタナトスである。

これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王 Herrin der Wissenschaften」として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: …
すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...
「力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?ist "Wille zur Macht" eine Art "Wille" oder identisch mit dem Begriff "Wille"? ……
――私の命題はこうである。これまでの心理学における「意志」は、是認しがたい普遍化であるということ。そのような意志はまったく存在しないこと。 mein Satz ist: daß Wille der bisherigen Psychologie, eine ungerechtfertigte Verallgemeinerung ist, daß es diesen Willen gar nicht giebt, (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)

そして力への意志こそエスの意志であり、タナトスである。

ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…
(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)

いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。
ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?
- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!
- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)

フロイト は「エスの力Macht des Es」とも言っているが、語の成り立ち上、「力への意志Wille zur Macht」のパクリである。

エスの力 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… 
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebeと呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』第2章、死後出版1940年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)


以上、敢えて断言的に記述したが、現在のわたくしはこうでなければならないと考えているということであり、異論が今後ありうるのを否定するつもりはない。

最後にわたくしがこう確信するようになったバルトの身体の記憶という表現を掲げよう。

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières、…失われた時の記憶 le souvenir du temps perdu を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶 le corps et la mémoireによって、身体の記憶 la mémoire du corpsによって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)

このプルース的「身体の記憶」のレミニサンスこそ、ここまで示してきたラカンの「身体の出来事événement de corps」、フロイトの「自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper」にかかわり(傷の強度の多寡はあれ)、さらにはニーチェの「傷つけることを止めないwas nicht aufhört, wehzutun」記憶の永遠回帰に結びつくと捉えている。


私は…問題となっている現実界 le Réel en questionは、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値 valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスと呼ぶもの qu'on appelle la réminiscence に思いを馳せることによって。…レミニサンスは想起とは異なる la réminiscence est distincte de la remémoration。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)