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2020年4月8日水曜日

BWV622 「ひとよ、汝がつみの」

この蚊居肢ブログは音楽ブログとして引きこもりすることにしたのでアシカラズ。とはいえときにエロに復帰することがないではないだろうが。蚊居肢子の真の関心はエロと音楽である。


老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。(古井由吉「白い軒」『辻』)


実はこの古井由吉の文に先ほど行き当たってレミニサンスがあったのである。新入社員のときの出来事である。宴会で隣に「品よく」座ったお姉さんに「もう一杯どう?」と徳利を差し出された。いくら膝を崩しながら、である。しかも密着的にズルズルと身体を寄せながら。吐息が耳にかかる。飲みはじめから現在不人気の「濃厚接触」気味である。膝のまるみがとても蠱惑的な女性だった・・・お猪口をやりとりするあいだ太腿ばかりが気になって仕様がなかった。しまいには彼女の熱い手だってボクの上腿に置かれる。あれは抵抗不能である・・・当時は女性の多い職場で、隣に座った顔はブーの脚美女は、後に噂で聞くと、「新入社員喰い」で名高い女性であった・・・



お姉さんを宇治の実家まで車で送り届ける途中、「酔い醒まししないと危ないわ」とおっしゃり人気のない場で休んだのだが・・・とても豊かな毛をもった女性であった・・・と「あら、一捻りでイッチャッタノ?」などとおっしゃったのではなかったであろうか・・・

………


さて前回、Alexander Jocheles のBWV622 を貼り付けたが、わたくしは高校時代、森有正にイカれたのでーーもっともその理由だけではまったくないがーー、バッハのオルガン曲をよく聴いた。


哲学者森有正はオルガンをこよなく愛した。礼拝堂でオルガンを弾くのが日課だったそうだ。彼がバッハについて語ったテレビ番組でそのことを知ったのだが、そこで彼は掛け替えのないものとして、コラール3曲を挙げた。『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』(BWV622)、『バビロンの流れのほとりにて』(BWV653b)、『おお、汚れなき神の子羊』(BWV656)の三曲だ。そして、医者になる前のプロのオルガニストとしてのシュバイツァーの演奏を引き合いに出して、そのすばらしさを力説していた。(島田泉「バッハの二つのコラール」)


とくに『おお、人よ、汝の罪の大いなるを嘆け』(BWV622)は、マタイ受難曲第一部の最後の合唱でも使われていたりするので、オルガン小曲集のなかでは偏愛の曲のひとつだった。シュバイツァーの演奏は手に入らなかったので、ヴァルヒャのもので聴いた。


■Orgel-Büchlein: No. 24, O Mensch, bewein dein Sünde gross, BWV 622 · Helmut Walcha



BWV 622 · Albert Schweitzer


わたくしの「友」ナウモフも自ら編曲したピアノヴァージョンのいくつかの演奏をYOUTUBEにアップしており、BWV622はオルゲルビュッヒラインのなかの代表作のひとつだと言ってよいだろう。

■Naoumoff plays his own piano transcription of Bach's organ Choral Prelude O Mensch BWV622



Emile Naoumoff, 2013


グラモフォンのバロックレーベルであるアルヒーフでは、当時カール・リヒターとヴァルヒャがスターであったが、チェロ曲ではフルニエが主役だった。


■Little Organ Book: No. 24, O Mensch, bewein’ dein’ Sünde gross, BWV 622 · Pierre Fournier, Gerald Moore





………

冒頭に「高校時代、森有正にイカれた」と記したが、リルケも森に紹介されて親しくなったところがある。

こうして私はリルケの刻印を受けた。それは私自身のある姿でもあった。私の歩みがどういうものであるか、それは「バビロンの流れのほとりにて」の中に私は誌した。私は、リルケのではなく、私の歩みを続ける外はなかった。私のうけた刻印は、私の歩みに従って、苦痛や歓喜や感動や、さまざまの反応を起した。私はそれに耐えて行く外はなかった。(……)

そのようなわけで、リルケは、殆ど対蹠的に見えるアランと共に、ヨーロッパにおける私の生活と仕事との二本の支柱のようなものとなった。そしてこの二人によって代表される二つの思想傾向が本当は異質のものではない、ということを、長い時間をかけて読んだプルーストは私に教えてくれた。(森有正「リルケのレゾナンス」)


「バビロンの流れのほとりにて」の冒頭を掲げよう。森有正に対しては種々の批判があるが、少なくともこの箇所はわたくしにとっていまだ古くなっていない。

一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。ヨーロッパの精神が、その行き尽くしたはてに、いつもそこに立ちかえる、ギリシアの神話や旧約聖書の中では、神殿の巫女たちや予言者たちが、将来栄光をうけたり、悲劇的な運命を辿ったりする人々について、予言をしていることを君も知っていることと思う。稚い生命の中に、ある本質的な意味で、すでにその人の生涯全部が含まれ、さらに顕わされてさえいるのでないとしたら、どうしてこういうことが可能だったのだろうか。またそれが古い記録を綴った人々の心をなぜ惹いたのだろうか。社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかしそのことはやがて、秘かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない。

たくさんの若い人々が、まだ余り遠くない過去何年かの間に、世界を覆う大きな災いのなかに死んでいった。君は、その人々の書簡を集めた本について僕が書いた感想を、まだ記憶していることと思う。そのささやかな本の中で僕の心を深く打ったのは、やがて死ぬこれらの若い魂を透きとおして、裸の自然がそこに、そのまま、表われていることだった。暗黒のクリークに降り注ぐ豪雨、冴え渡る月夜に、遥かに空高く、鳴きながら渡ってゆく一群の鳥、焼きつくような太陽の光の下に、たった一羽、濁った大河の洲に立っている鷲、嵐を孕む大空の下に、暗く、荒々しく、見渡すかぎり拡がっている広野、そういうものだけが印象に今も鮮やかにのこっている。そこには若い魂たちの辿ったあとが全部露われている。しかもかれらの姿はそこには見えないのだ。このことは僕に一つの境涯を啓いてくれる。そこには喜びもないのだ。悲しみもないのだ。叫びもなければ、坤きもないのだ。ただあらゆる形容を絶した Desolation(絶望)とConsolation (慰め)とが、そしてこの二つのものが二つのものとしてではなく、ただ一つの現実として在るのだ。もう今は、僕の心には、かれらが若くて死んだことを悲しむ気持はない。この現実を見、それを感じ、そこから無限の彼方まで、感情が細かく、千々に別れながら、静かに流れてゆくのを識るだけだ。これは少しも不思議なことではない。極めてあたり前のことなのだ。ただたくさんのものが、静かに漲り流れる光の波を乱して、人生の軽薄さを作っているのだ。人間というものが軽薄でさえなかったら ……。
僕を驚かすものが一つそこにある。いま言ったことは、人間が宇宙の生命に瞑合するとか、無に帰するとか、仏教や神秘哲学がいうしかじかのこととはまるで違うのだ。もっと直接で素朴なことなのだ。ライプニッツというドイツの哲学者が単子説に托して言っているように、この限りない彼方まで拡がってゆく光の波は一人一人の人間の魂の中に、さらにまたそれに深く照応する一つ一つの個物の中に、その全量があるものなので、あるいはそういうものが人間の魂そのものと言ってもよいかも知れない。しかしもうこういう議論めいたことは止めよう。つまり一人の人間があくまで一人の在りのままの人間であって、それ以上でも、それ以下でもない、ということが大切だ。

紗のテュールを篏めた部屋の窓からは、昨日までの青空にひきかえて、灰色がかった雲が低く垂れこめる夕暮の暗い空が、その空の一隅が、石畳の道の向う側にある黒ずんだ石造のアパートの屋根の上に見える。パリの秋はもう冬のはじまりだ。すこしはなれたところにあるゲーリュサック街を通る乗用車やトラックの音が時々響いてくる。小さいホテルの中は、何の物音もしない。本やノートを堆く重ねた机の前に僕はこれを坐って、書いている。これがすくなくとも意識的には虚偽の証言にならないように、ただそれだけを、念じながら。

人間が軽薄である限り、何をしても、何を書いても、どんな立派に見える仕事を完成しても、どんなに立派に見える人間になっても、それは虚偽にすぎないのだ。その人は水の枯れた泉のようなもので、そこからは光の波も射し出さず、他の光の波と交錯して、美しい輝きを発することもないのだ。自分の中の軽薄さを殺しつくすこと、そんなことができるものかどうか知らない。その反証ばかりを僕は毎日見ているのだから。それでも進んでゆかなければならない。

考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「 M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壷を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いて来た。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。

たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに深く立つ日まで、止まらないだろう。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)