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2020年4月8日水曜日

自我理想と超自我の区別

お嬢さんはボクのブログから引用を連発してるようだが、それにもかかわらず、いまだ超自我と自我理想の区別がついていないようだから、ま、言わせてもらえば、絶望的になるのを通り越して○○しかないんだよ。ひきこもったらダメよ、なんて言われてもさ。もうすこし地道にーー10年ぐらいかけて(前みたいに、その無知のパッションだったら「100年かかる」とはこの際言わないでおくさ)ーー、オベンキョウしたほうがいいよ。

………


フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006年)

ここでは理想自我には触れない(参照:理想自我 i(a) 、自我理想 I(A) 、超自我 S(Ⱥ))。自我理想と超自我のみに絞る。

我々は象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、自我理想 idéal du moi は主体と大他者とに関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能pas du tout pacifiqueがある。そしておそらくこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

まずここで次のように図示できる。



この自我理想I(A)とは、父の隠喩機能をもつ父の名であり、超自我S(Ⱥ)とは、母なる超自我である。現代ラカン派においては母なる超自我が、超自我自体である。

◼️母なる超自我 = 超自我自体

母なる超自我 surmoi mère ⋯⋯思慮を欠いた(無分別としての)超自我は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望が、父の名によって隠喩化され支配されさえする前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。(⋯⋯)我々はこの超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)
超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi,。それは父の名の平和をもたらす効果 effet pacifiant du Nom-du-Pèreとは反対である。しかし「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎない le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi ことである。その普遍的特性は享楽への意志 la volonté de jouissance の奉仕である。(ジャック=アラン・ミレール、Théorie de Turin、2000)
ラカンが教示したように、父の名と超自我はコインの表裏である。 comme Lacan l'enseigne, que le Nom-du-Père et le surmoi sont les deux faces du même,(ミレール、Théorie de Turin、2000)

したがって次のように図示できる。

前期ラカンはこの「父の名」に相当するものを「父なる超自我」と呼んだ。

「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。

…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求しencore plus exigeant、さらにいっそう圧制的 encore plus opprimant、さらにいっそう破壊的 encore plus ravageant、さらにいっそう執着的な encore plus insistant 母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)

すなわちこう図示できる。


ーーここでの父の名は父の隠喩としての父の名であり、晩年のラカンのサントームとしての父の名ではないことに注意。

最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013ーー二種類のサントームについて


ところで晩年のフロイトは超自我についてこう記している。
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

したがって、超自我とは死の欲動である。

タナトスとは超自我の別の名である。 Thanatos, which is another name for the superego (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2018)

この死の欲動とはもちろん、ラカンの享楽であり現実界である。

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

したがってジャック=アラン・ミレールは次のように言うのである。

我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(ジャック=アラン・ミレール、 Clinique ironique, 1993)
欲望は享楽に対する防衛である。le désir est défense contre la jouissance (Jacques-Alain Miller、L'économie de la jouissance、2011)

要するに父の名(自我理想)=父なる超自我は、原初にある母なる超自我(超自我自体)に対する防衛に過ぎない。


太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
私が「太古からの遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、それは普通はただエス Es のことを考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


エスの審級にある母なる超自我に対する「防衛」とは、最後のラカンの言い方なら「妄想」である。

フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)

もう少し補足すればこうである。

「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴(=トラウマ)があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](Miller、Vie de Lacan, 17/03/2010 )
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界は…穴ウマ(穴=トラウマ)を為す。le Réel[…]ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

この誰もがもつトラウマを「一般化トラウマ traumatisme  généralisée 」と呼ぶラカン派もいるが、主流ラカン派では「一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée」と呼ぶことが多い。

何はともあれ、この穴の穴埋めをすることが「防衛」であり「妄想」である。

病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)

問題は穴埋めしても残滓があることである。



この残滓を、フロイトはリビドー固着の残滓(ラカン派用語なら「享楽の固着 fixation de jouissance」、あるいは享楽の残滓)、かつ原始時代のドラゴンと呼んだ。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。…

いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
不安セミネール10にて、ラカンは「享楽の残滓 reste de jouissance」と一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 points de fixation de la libidoを語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。固着は徴示的止揚に反抗するものを示す La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante,。固着とは、享楽の経済 économie de la jouissanceにおいて、ファルス化 phallicisation されないものである。(ジャック=アラン・ミレール、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN、2004)


ようは人が(少なくともときに)原始時代のドラゴンに回帰することは、どんな分析治療をしても、あるいはどんな善人ぶった人でも、避け難い。

享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

フロイトは「魔女のメタサイコロジー」が必要だと言って死んでいったが、これはラカン派のサントームの臨床でも結局、似たようななものである。

「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie  である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)

以上、簡潔版だから厳密さに欠けるけど、このあたりがフロイトラカン山の三合目から四合目あたりだよ。五合目より上にはエロ小屋がたくさんあるけど、そこまで行かなくていいからさ。いつまでも登山準備ばかりしてないで、自力で登り始めることだね、一合目にはまだぜんぜん到ってないよ。